第20話 Hの話-9
「ただいま」
真っ暗な室内に向けて声をかけてから靴を脱ぎ、屈んで揃える。この家には私一人しか住んでいない。だから、帰宅の挨拶など意味はなかったのだが、何となく惰性でそれを続けていく。
合理的でもなければ、建設的も何もない行為。
それでもきっと、私は言い続けるのだろう。これから先も、ずっと。
「今日も素敵な日だった」
蓮君と一緒にカフェに行って語らう。
ゲームセンターやカラオケだってそれは出来るが、カフェはコーヒーを飲みながら会話に最も時間を割くことが出来る。
故に定期的に、私の経営し始めた喫茶店に連れていく。あたかも昔からあるかなような雰囲気を出したお店。経営、といっても利益は考えていないプライベート空間でしかないのだが。
あのお店には、マスターこそいれど、私たち以外には客は一切入ってこない。
そんな、二人だけの空間だ。
彼の表情が。
彼の声が。
彼の匂いが。
彼の一挙一動が。
全てが私の中を満たしている。
部屋の電気を点け、乱雑に鞄をベッドへと放り投げる。このまま致してしまおうかとも考えたが、それは夜でもいいだろう。
電源が入りっぱなしのパソコンの前に座り、モニタの電源を入れる。
簡素なデスクトップ。ゴミ箱と一つのフォルダ以外には存在しない。
『蓮君』と名前の付いた唯一のフォルダを開く。いくつかの動画ファイルが画面に並んだ。サムネイルには、どれも丁度いい角度で蓮君のベッドが写っている。
どうやら、私の指示通りちゃんと机の上に置いてくれたらしい。
暫く時間を進めると、数十分もしないうちに突然画面がブラックアウトした。
小首を傾げながら数分ほど前に遡る。
目の前に、
画面が揺れる。
床へ向かって落ちていき、そのまま画面は真っ暗になった。
なるほど、彼女にあっという間にバレて壊されたわけだ。思った以上に嗅覚が優れている。
次からはぬいぐるみをブラフにして、他の場所にカメラを仕掛けるのもアリかもしれない。
実際、もう一箇所カメラは存在している。
前に無理を言って蓮君の家に入った時に仕掛けたものだ。
どうやら、そちらは見つかっていないようだった。
──数日分の、動画を見る。
妹による、兄への凶行を目の当たりにする。
「…………まだまだ足りないね」
いや、十分にやってくれてはいるだろう。
純粋な暴力に加えて性的暴力、学校と家の二つしか世界が存在しない学生にとって、家が安寧の場所にならないのは大きな問題だ。
ただ、まだ蓮君の抵抗が強い。殴られれば、或いは叩かれれば静かにはなるが、行為中も苦々しげな表情を崩さずにいる。
しかし、それも時間の問題だろう。徐々に日常にもその欠片が露呈し始めているのだから。
彼女が、私の存在を既に認知しているのも承知している。そこに隠したカメラもあったとなれば、私に対する敵意も増したはずだ。
彼女にとっては、兄が全てだ。
故に、私に対する感情も全てが独占欲へと変換される。
結果的に、兄への凶行がより激しさを増す。
それでいい。それで。
そのまま壊してくれればいい。
それを、私が癒す。
彼女にはもう、その役割を果たせない。
彼女はもう、永遠に恐怖の対象となる。
無論、DV加害者特有の言動は見られた。しかし、それに蓮君が応えるかは分からない。それに、何れにしても共依存関係でしかない。
──では、私は?
そう、私は救いの女神になる。心が擦り切れた蓮君に寄り添い。癒しを与える。私に依存するまで、差して時間はかからないだろう。
その依存は、心が消耗しているほどに、効く。
だから、精々頑張ってくれよ。
画面の向こうから、彼女だけの、一方的な嬌声が響く。 愛する人が目の前で穢されている事実には、なんの感傷も覚えない。
さぁ、存分に欲望をぶつけたまえ。
存分に蓮君を味わい、追い詰めたまえ。
──最後に嗤うのは、私なのだから。
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