第17話 Rの話-8
「蓮くん、君にとって
「……大切な、たった一人の家族」
「3.1秒」
「えっ?」
「蓮くんが答えを返すまでにかかった時間」
エレナさんは、口端の片方を僅かに上げた。
今日は放課後にカフェに行こうと誘われた。彼女の行きつけで、中学時代から定期的に訪れている落ち着いた雰囲気のカフェ。
お店にいるのは初老のマスターの一人だけ。静かな店内には、いつもあまりお客さんは入っていない。今も僕たち二人だけだ。
これでよくやっていけるなと常々思うが、資産のある人が趣味の延長線でお店を始めるケースも多いらしい。その場合は利益は気にする必要性はなくなる。
此処も、きっとそういったお店なのだろう。
この大人びた雰囲気には未だ慣れないが、この喫茶店のブレンドコーヒーはとても美味しい。
僕とは対照的に、エレナさんはこの雰囲気にも負けず、まるで一つの絵のようにしっくりと収まっていた。
「げほっ。んー、やっぱり私にはまだ早いようだね」
僕を真似てか、コーヒーに何も入れずブラックで飲んだらしく、思い切り顔をしかめている。なんでも器用にこなし、文武両道、品行方正を貫く彼女にも不得手なものがあるのだと思うと、自然と口元が緩むのを感じた。
「お、ようやく笑ったね。やはり蓮くんには笑顔が似合うよ。とても可愛らしい」
頬杖を付きながらエレナさんはこちらを見つめて柔らかな笑みを浮かべる。
可愛いというのは男としてはあまり嬉しくない言葉だが、エレナさんに言われると何ともいえない恥ずかしさを覚えて、誤魔化すかのようにカップに口を付ける。
酸味の少ない、コクのある苦味は僕好みで、落ち着きが得られるいつもの味にほっと息を吐いた。
「で、本当はどう思ってるんだい?嫌い?」
「好きだよ。たった一人の家族だから」
「怖い?」
「…………まさか。妹にそんなこと」
「今度は、4.2秒。さっきより、長いね。体もほんの少し強ばった」
角砂糖を二つと小さなポット型の入れ物からミルクを入れながら彼女は言った。視線は手元のコーヒーに向けられ、その表情を見ることは叶わない。
「あんなことされたら、そうもなるよね」
くるくるとスプーンでコーヒーを砂糖とミルクとを混ぜていく、泥水のような黒色がマイルドなカフェオレ色に変わっていく。
断定的な口調。しかし、不思議とエレナさんがそれを知っていることに疑問は浮かばなかった。なんでも知っている、彼女はそういう人だ。
「君の心は、酷く消耗している。それは容易には取れないものだ」
エレナさんはコーヒーを一口飲むと、味に満足したのか一度頷いた。
「但し、その手伝いをすることが私には出来る。癒すことができる。……端的に言えば、君の傍に寄り添っていたいのさ。今の曖昧な関係ではなく、恋人という立場で」
好意自体は何度も伝えられていたが、こういったストレートな告白を受けたのは初めてだった。
カップを持ち上げかけた手は止まり、僕の頭には空白が生まれる。
「私が心を許しているのは蓮くん、君だけだ。私の周りに集まるのは、私のスペックに群がる有象無象だよ。灯りに惹かれる蛾と同じだ」
彼女の周りには常に人がいる。しかしそれらの人々を有象無象という一言で一蹴した。僕だけ、その響きは寒く固まった心の中に僅かな安寧をもたらす。
「そして、蓮くんが心を許しているのも私だけだ」
断定的な口調で、彼女は言った。それは、紛れもない事実だ。傷ついた僕の心に、彼女は癒しを与えてくれる。灰色の世界に彩りを持たせてくれる。
「けど、エレナさんは……」
「そんなこと、どうだっていい。所詮、過去のことだ。今の君がどう思っているか、それが何より大事なことだよ」
「…………」
「もう、いいだろう? 君には癒しが必要だ。癒されるべきだ。そして、それが出来るのは私しかいない」
僕の答えが分かりきっているかのように、彼女は悠々とコーヒーを飲む。
その言葉の通り、僕の心を真に癒してくれるのは彼女以外に有り得ない。僕を孤独から救ってくれたのは彼女だ。
病院でもらう安定剤で得られる偽りの、対症療法的なものとは全く違う、温かさを持った安らぎ。
彼女は、僕のことを全て知りながら、それでも僕を選ぼうとしてくれている。それは、執着に近いものかもしれない。けれど、僕はそれに安心感を覚えている。
「さぁ、答えは? もちろん、いつまでも待つ心積りだが、所詮は時間の問題だろう? ほら、答えを言ってごらん。頷くだけ。ただそれだけでいい。たったそれだけで、君は救われる」
その言葉の通りだと思った。何れはそうなるのだろう。遅かれ早かれ、というだけ。僕の傍にずっといてくれた、掛け替えの無い存在。
小さく息を吐く。頷くだけで良いと言ってくれたが、流石に筋は通すべきだろう。
「えと、エレナさん。ぼ、僕と、付き合って、ください……」
僅かな躊躇いと気恥ずかしさに噛んでしまいながらも、僕は決定的な言葉を告げた。
「うん、宜しくね。蓮。恋人になったんだ、親しみと情愛を込めて、これからはエレナと呼ぶように」
「……分かった、エレナ。僕、こんなだから、色々迷惑を掛けちゃうと思うけど、よ、宜しくね?」
エレナ、と呼ぶのもすんなりと抵抗なく受け入れられた。かつて、そう呼んでいたこともあったからだろう。しかし、顔が熱くなるのを感じ、僕は俯いて再び手元のコーヒーを見つめて、いつの間にか乾いた喉を潤す。
「迷惑なんて、何もないさ。さぁ、蓮。これからは楽しい思い出を作っていこうじゃないか。無論、二人きりで」
エレナは仰々しく両手を広げる。そんな芝居がかった動きさえ、彼女がすると違和感はなく、寧ろ一つの絵のようだった。
少し離れたカウンターの中で、マスターが柔和な笑みを浮かべている。
──そうして僕に、初めての恋人ができた。
現実感は、まだ薄い。
「……ごめんねぇ、
愉悦に満ちた小さな呟きは、僕の耳には届かなかった。
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