第16話 Hの話-7

「あのぬいぐるみ、なに?」


 夜、兄の部屋を訪れると見知らぬのぬいぐるみが机の上に置かれていた。

 昨日まではなかった、つまり今日学校で、或いは帰り道に、他の場所で入手したものであることに他ならない。


 ベッドに座る兄へ、詰問の言葉を投げかけながら近づいていく。


「ゆ、UFOキャッチャーで取った景品で……」


「嘘」


 兄はゲームセンターに行くようなタイプの人間では無い。それは妹である私がよく知っている。

 だから、即座に否定した。


「……正確には、半分? でも、嘘は嘘」


 屈んで兄さんの両頬に手を添え、互いの鼻がぶつかるほどの距離まで顔を近づけて瞳の中を覗く。

 なるほど、恐らくUFOキャッチャーの景品であることは本当なのだろう。


「女、でしょ」


「ち、違……」


「嘘」


 兄さんは分かりやすい。

 女、という単語に僅かに体を硬直させた。他の女の目は誤魔化せても、私の目を誤魔化すことは出来ない。

 私は兄さんの全てを知っている。


「金髪の女」


 敢えて、名前は出さない。

 けれど、目に見えて兄さんは狼狽し、視線が泳いで行き場を失い、やがて床へと向けられた。


「なんで嘘、ついたの。兄妹だよね? 唯一の家族だよね? 嘘つかないでって約束したよね?」


 そう、私たちはたった二人だけの家族。誰にも否定できない、強い繋がりで結ばれた関係。

 私たちの間に偽りは、嘘は、許されない。


「あっ、いや、隠すつもりはなくって……」


「じゃあ、なに?」


 しどろもどろになっても、詰問を止めることはしない。怜悧な視線を投げかけつつ、私は一旦兄さんから離れて、机の方へと向かった。


「兄さん。兄さんは私に、ずっと傍にいる、って言ってくれたよね。ずっと私を護ってくれるっていったよね。それなのに何で、他の女のことを見ているの?」


 机の上のぬいぐるみを掴む。

 間抜けな顔が私の苛立ちを、より強いものにする。ネコのぬいぐるみの両耳をそれぞれの手で持つ。


「何で!!」


 声を上げると共に左右に思い切り力を入れると、僅かに糸が反発し、しかし直ぐにブチブチと音を立てて縫い目にそって破けていく。

 八の字の眉毛が歪み、臓物の代わりの白い綿が中から飛び出し、その中から小さな黒い機器が零れ落ちる。

 左右に裂かれたぬいぐるみを放り投げつつ、私は床に転がったその小さな機器を思い切り踏みつけて粉砕した。


 兄さんの元へ詰め寄ると、収まらない怒りのまま胸ぐらを掴んで力任せに持ち上げる。私よりも体格の小さい兄さんは、地面から足が離れる形となる。


「くっ、苦し……」


「嘘をつかれた私の方が苦しい! なんで嘘ついたの! なんで私以外の女を見るの! 嘘つき! 嘘つき!」


 思い切り罵声を浴びせてから、その小さな体躯をベッドに向けて放り投げる。ベッドを転がった兄さんは壁に体をぶつけ、首を絞める形にもなっていたからだろう、ごほごほと咳き込んでいた。

 私の受けた仕打ちを思えば、当然のことだ。


 ベッドへと上がり、兄の元へと近づくと片手で前髪を鷲掴みにして無理矢理顔を持ち上げる。


「嘘をつかないで。私だけの傍にいて。私を護って」


 懇願の言葉。けれど兄さんはむせ込んだまま、返事はない。


「嘘をつくな。傍にいろ。護れ」


 前髪を掴んだまま背後の壁に頭を叩きつける。壁が、小さくミシリと音を立てた。


「ねぇ返事は? 早く。返事は? 早く。喋れるよね? 返事は? ねぇ?」


「は、ぃ……」


 掠れた声が聞こえた。

 兄さんは私を試すかのように、たまにこうやって他の女に視線を移す。私の気持ちが何処かに離れていないかどうかを確かめるために。そんなことしなくても、私の気持ちは変わらないのに。

 だから、意味もなく私を苛立たせる兄さんが嫌いだ。


 そのまま何度も、頭を壁に叩きつけた。その度に呻き声が聞こえるが、これも一つの、私たちだからこその愛情表現だ。


 ──兄さんは、私の全てを受け入れてくれるのだから。


「も……やめ、て……」


 か細い声にはっと正気を取り戻して手を止めた。意識を失う寸前なのか、虚ろな目をしている。私の指には、抜けた兄さんの髪が何本も絡みついていた。


「あっ、ごめんなさい! ごめんなさい、兄さん……。兄さんが、酷いことするから、つい……」


 兄さんの頭を胸にかき抱き、何度も叩きつけられて痛むであろう後頭部をさする。壁はひび割れ凹みが出来ていた。相当に痛かっただろう。私は兄さんの痛みを思い、涙ぐみながら頭を擦り続けた。


 そのまま、私の胸の中で兄さんは気を失った。寝顔はまるで天使のようだった。


「兄さん……」


 目一杯の愛おしさを込めて呟く。

 私を護ってとはいったが、むしろ私が兄さんをゴミから護らなければいけない。


 窓の外を見る。

 上弦の月の光が、私たちを照らしていた。

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