第7話

 馬で三日以上かかる距離を、リュフェスの力を受けたフェンリルは夜通し駆けてほぼ一日で踏破した。

 背の高い城壁に囲まれた巨大な王都の姿を、リュフェスは十年ぶりに目にした。だがそれに何かを感じる暇もなく、フェンリルはジャンヌの匂いを追って王都の中を駆け抜ける。


 すれ違う民間人の悲鳴、何事かと追いかけてくる警邏をも振り切って、ある独特の旗が掲げられた巨大な建物にたどりついた。

 その旗の意味がわかったとき、リュフェスは血の気がひいていくような思いを味わった。


 二つの杖が交差し、そのまわりを柊の葉が囲む印の描かれた旗は、医療院を示している。普通の怪我人や病人が運び込まれる場所ではない。特殊な怪我を負うことが多い、探索者のためのものだ。


 フェンリルが再び小さな白い犬の姿をとり、建物に駆け込む。リュフェスもそのあとを追って走った。

 院内の人間が驚いてあげる声や、制止の声を振り払い、階段を下りる。地下へ。更にもう一階層下りる。最下層――重篤な患者が収容される地下二階。


 入り口は鉄格子に閉ざされ、鍵がかかっている。侵入者を防ぐためではない。収容された者が

 かっとリュフェスの頭に血がのぼった。


「壊せ!」


 フェンリルの姿は小型化しても、その強靭な牙は健在だった。リュフェスの命令を、すぐに実行する。

 鍵が壊れ、鉄格子を蹴って中に侵入する。暗く、うめき声の充満する場所――左右に房が並び、まるで地下牢だった。


 フェンリルは闇の奥へ向かって走り、一番奥の房で止まった。

 リュフェスの体はかすかに震えた。うそだ、というかすれた声が胸にこだまする。


 房の鍵もフェンリルが破り、リュフェスは足を踏み入れた。どくどくと心臓が脈打ち、自分の荒い呼吸の音が耳障りなほど反響した。


 壁にかけられた小さな火が、暗い部屋に置かれた粗末な台――そしてその上に横たわる影を映し出す。


 ジャンヌ。


 リュフェスはそう呼ぼうとして、できなかった。全身が冷たくなり、嘘だ、こんなところにジャンヌがいるわけがないという思いが駆け巡った。

 すくみそうな足で一歩、また一歩と近づいてゆき、粗末な台に近寄る。

 いまにも消え入りそうな、苦痛にまみれた呼吸が聞こえる。

 それから。


 漆黒に染まったがだらりと寝台から垂れていた。


 横たわっているほっそりとした人影――その顔が、壁掛けの火にわずかに照らされて浮かび上がる。

 一欠片の陶器のように白い頬が浮かんだ、よく見知った顔。

 苦しげに目は閉じられ、顔の左側は房内にわだかまる闇よりもなお黒く汚されていた。


「ジャ、ンヌ……」


 リュフェスはかすれた声でそう呼んだ。

 苦痛に歪み、汗を浮かべていた目がゆっくりと持ち上げられる。


「リュー……?」


 か細く枯れた呼び声は、それでも確かにリュフェスが十年守り育ててきた少女のものだった。


 リュフェスは視界が歪み、煮立つような感覚に襲われた。

 ひく、とかすかに嗚咽の息が聞こえ、ジャンヌが身動ぐ。リュフェスに背を向けた。

 その背は細く、かすかに震えていた。


「ご、め……リュー、ごめん……」


 すすり泣く声に、リュフェスは息ができなくなった。頭を激しく殴られ、揺らぐような感覚。

 息が震え、強く奥歯を噛んで耐えた。


 ――何があった。


 視界が真っ赤に染まる。体が震え、肌が粟立つ。吐きそうなほど激しい怒り。悔しさ。痛み。


「……何、謝ってんだ。大丈夫だよ」


 ただ、それだけを言った。

 何が大丈夫なのかわからない。だが、これまでずっとそうしてきたように、ただ言い聞かせた。


 こんなところにジャンヌを置いておけない。

 ――帰ろう、ジャンヌ。

 そう言いかけると、背後に低い振動音のようなものがした。とっさに短剣の鞘を払って振り向くと、薄紫の光が立ち上り、その中に女の姿が浮かび上がった。

 カルメルだった。

 リュフェスはかすかに息を飲み、鞘を短剣に戻した。


 カルメルが王都出身の魔術師ということは知っていたが、高難度の転移の魔術まで使えるなど知らなかった。

 カルメルの目はリュフェスに向き、そしてその背後の横たわるジャンヌを見た。


「ジャンヌちゃん……!」


 優しげな目が見開かれたあと、ひゅっと息を飲む。それから、リュフェスが見たこともないような厳しい顔になった。


「……見せて」


 強ばった声。

 カルメルならあるいは、ジャンヌを治してくれるかもしれない。――そんな淡い期待がわき、リュフェスは体を横にずらした。


 カルメルは台の側で屈み込み、震えるジャンヌの背に優しく触れる。

 労りの声をかけ続けながらカルメルがジャンヌの体を確かめるのを、リュフェスはもどかしく思いながら待った。


 やがてカルメルが動きを止める。


「カルメル、ジャンヌは……」


 どうしたのかと聞こうとしたとき、慌ただしく重い足音が響いた。すぐにジャンヌの房の前までやってくる。医院の人間が警備を呼んだのか、制服の男たちが現れた。


「貴様ら! ここから出ろ!」


 リュフェスに向かって、男たちは怒鳴り、房の中に踏み込んで捉えようとする。

 だがその間に、フェンリルが割って入った。牙を剥き出しにうなり、男たちが怯む。

 リュフェスの背後で、カルメルが静かに立ち上がった。


「……リュフェス君。いったん、待って。経緯を聞きましょう。このままジャンヌちゃんを連れ帰っても……」


 カルメルは濁した言い方をした。

 リュフェスは苦い思いを噛みしめながら、フェンリルを下がらせた。男たちを力尽くで排除させるかわりに、


「……ジャンヌを守れ」


 そう命じた。

 それからたじろぐ男たちに怒りの眼差しを向けた。


「状況を説明しろ。何があった。ジャンヌの仲間はどこだ」

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