第6話

「おーい、リュー。こっちも頼むぞー」

「ほいほい」


 日焼けした農夫にそう声をかけられ、リュフェスは畑を耕していた手を止めた。額の汗を拭う。残りわずかだった畝を作り終え、鍬を抱えて、隣の畑の農夫の元へ行く。

 そしてまた同じように畑を耕しはじめた。


「お前さん、細っこいのによう働くなぁ」

「はは、まあ……」


 そうしなきゃ生きていけないし、とリュフェスは内心で苦笑いした。

 幼い頃からずっと農夫をやってきたような、この村の同年代の青年と比べると確かに細いし屈強さはないが、それでも十年前よりは少し逞しくなった。


「元、《獣使い》だっけか? ようわかんねえが、家畜と仲良くできんだろ? そいつらにやらすってこと、できねえか?」

「……まあ、そういうのはやめたんで」

「はあ、そんなもんか」


 案外不便やなあ、とのんびりした調子で農夫が言うのを、そうなんすよ、と適当に返す。

 ――《鋼の刃》を抜け、その後どこにも《獣使い》として雇ってもらえなかったとき、リュフェスは探索者をやめた。そして、《獣使い》としての力も封印した。

 家畜がなんとなくリュフェスの言うことを聞くのは、力を使わないでできる最大限だった。


 休憩にすんべ、と言われ、いったん手を止めて日影で水分補給していたとき、リュフェスの耳はふいにを聞き取った。

 か細く、高く、まるで断末魔のような声――。

 はっと顔を上げると、翼を広げた大きな鳥の姿があった。


「なんだあ? 餌なんか……」


 リュフェスにつられて頭上を見上げた農夫が疑問の声をあげ、鍬を振り回して追い払おうとするのを、リュフェスは押し退けた。おい、と抗議の声をあげられたことも、リュフェスの意識にはのぼらなかった。


 鳥は明らかに不安定な動きで降下し、とっさに両手を述べたリュフェスの上に落ちる。

 リュフェスは声を失った。

 鳥は満身創痍だった。翼は血とそれ以外のもので濡れ、羽のところどころを毟られ、切り裂かれている。

 ――ひそかに、ジャンヌを守るためにとつけた鳥だった。上空から見守り、迷宮の中にも同伴でき、危険があればジャンヌに知らせてやる。

 それが……。


「どうした!! ジャンヌに何があった……!?」


 鳥は答えない。ただ何かを伝えようとして顔だけを辛うじて持ち上げ、か細く高く一声鳴き――そのまま、動かなくなった。

 その姿に一瞬ずきりと胸が痛くなるのを感じながら、リュフェスの心拍数はたちまち上がった。頭の中で不安ががんがんと鳴り響いた。


 隣の農夫の声が遠くなり、リュフェスは半ば痺れたような感覚のまま、役目を果たしてくれた鳥を撫でた。


(――ごめん。ありがとな)


 短く告げて土に埋め、そのまま自宅に駆け戻った。

 寝室の床板を外し、下に埋めていたものを引きずり出す。

 ぼろぼろになった木箱と布の中に、無骨な短剣と複雑な紋様の刻まれたくすんだ銀の籠手があった。

 どうしても捨てられなかった、《獣使いテイマー》の証。


 ためらったのは一瞬だった。

 銀の籠手を左にはめ、ずしりと重く冷たい感触を感じながら、短剣を取った。

 そのまま家を飛び出す。すると、白い小さな犬が既に待っていた。


 寝てばかりいた目はいま大きく開かれ、爛々と輝いて主の命令を待っている。


「……リル、頼む」


 リュフェスは短く言うと、冷たい銀の籠手に右手を重ねた。


「我は主、汝は僕。いま汝を眠りから解き放つ」


 捨てたはずの言葉が、驚く程喉からなめらかに滑り落ちる。鈍色の籠手が、身震いするように淡く光を放った。


「――真の姿を現せ、白狼フェンリル!」


 次の瞬間、鮮烈な光が弾けた。その中で、狼の雄叫びが響き渡り、びりびりと空気を震わせる。


 やがて光がひいてゆくと、積もりたての雪よりもまばゆい色の巨大な狼の姿がそこにあった。成人の男より一回りも二回りも大きい。

 白昼の雄叫びに気づいた村人が集まってきては、白狼を見るなり悲鳴をあげる。


 リュフェスは構わずフェンリルの背に跨がった。


「頼む、王都まで飛ばしてくれ!」


 巨大な狼は強く一度吠えると、身を翻した。村の中を駆け抜ける。

 村人の悲鳴と驚愕の眼差しの中に、カルメルの姿もあった。


「リュフェス君……!?」


 リュフェスは振り向かず、ただ前だけを見つめた。村を出るなり矢のように加速するフェンリルに必死にしがみつき、前だけを見据えていた。


(ジャンヌ、頼むから無事でいてくれ……!!)


 心の奥底にずっと封印していたはずの光景が――青ざめて死に行こうとしたジャックの最後の姿が脳裏によぎり、リュフェスは強く目を閉じた。

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