第2話 遺産問題
「誰……?」
湯煙の向こうから声がする。私はしまった、と思った。寮長でもないのに、寮長室のお風呂に。いや、この時間なら誰も利用してないと思ったのだ……。
返事に困っていると、向こうの方からちゃぷちゃぷと湯を割く音が聞こえてきた。湯気の奥から、柔らかい曲線が姿を現す。
それは見たところ、七年生か六年生くらい――つまり十六歳か十五歳――の子だった。長い髪を後ろでくるんとまとめている。結構な量……多分相当髪が長い。その髪は濡れてはいたのだが、毛先が解けるくらいには時間が経っているらしかった。
大きな目をじっと細めている。視力が悪い……のかしら。私たちがいても臆することなく肌を晒しているあたり、彼女も人前で――もちろん同性限定で――裸になることに抵抗がない人なのだろう。
年頃の、美しい曲線を描いた裸体に、シャロンがどぎまぎと視線を泳がせる。だからー。何で裸の当人よりあなたが恥ずかしがるんだって。いつの間にかまた腕で体を隠してるし。
「まぁ」
向こうから来た女の子が顔をしかめた。
「寮長じゃないわね?」
そりゃまぁ、こんな年頃だし。
「えっと、その……」
私もどぎまぎする。しかしもう、隠し立てはできない……文字通り、裸だし。
「ごめんなさいっ」
素直に謝罪する。それから言い訳を並べる。
「寮長室に大きなお風呂があるって聞いて、一回入ってみたくて……」
「入り口の合言葉は突破できたの?」
合言葉……慈愛の女神像に綴る文言のことだ。
向こうから来た女の子はむう、と考えた顔になる。それから、ほっとため息をついた。
「まぁ、突破できたなら資格はあるってことでしょう」
と、腕を組む。そうして寄せられた胸を見て、私もああなれるのかな、と淡い期待を抱く。
「今は私しかいないから。内緒にしておいてあげるね。だからゆっくり入って」
そう、女の子はまた湯煙の向こうに歩いていこうとする。私は呼び止めた。
「待って! お名前は……」
「クリスティーナ」
背中を向けたまま、こちらを振り返った彼女。その仕草さえ、ため息が出るくらい美しい。
「クリスティーナ・フォン・ラインホルト・ローゼ。サウスマンの女子寮長」
ここで私はうん? と首を傾げた。
名前に「フォン」がついた。これは東クランフの伝統的な家系につく特別な苗字だ。加えて、「ラインホルト」。直訳すると「文字を綴る者」。そして、「ローゼ」までつけば……。
同じ苗字を持つ人物を、私は知っている。
フィルベルト・フォン・ラインホルト・ローゼ。
「文学帝王……?」
私は素っ頓狂な声を上げた。そのまま続ける。「の、娘?」
しかし女の子は……クリスティーナは、何故か悲しそうな顔を見せて、首を振った。
「ううん。姪。フィルベルトは……フィル伯父さんは、私のお父さんの兄」
「文学帝王の、姪」
私はシャロンと顔を見合わせた。それから、まず私がつぶやく。
「この学校に?」
シャロンが続く。
「文学帝王の親族?」
「初めて知った……」
「私も」
気づけばまた、シャロンは腕で体を隠すのを忘れていた。そうして三度露になった体を見て、私は自分の胸に触り、思う。
今更だけど、シャロンには、勝ったかな。
*
滝風呂で体を洗い、大風呂に、肩まで浸かりながら、クリスティーナとシャロンと私の三人で、話す。
「何年生?」
クリスティーナの質問に私は答える。
「四年生」
「二人とも?」
「ええ」
「お名前は?」
まずシャロンが答える。
「シャロン・ホルスト」
「よろしく」
続いて私。
「モニーク・アップルビー」
「かわいい苗字……って、もしかして」
クリスティーナが目を丸くしてこちらを見る。それからこう告げた。
「ノウスレディの六年生に同じ苗字の人いる」
あー。
「名前はトバイアス・アップルビー」
「お兄ちゃんです」
私はやれやれ、と肩をすくめる。
「お兄ちゃん、有名人なの?」
「ノウスレディどころか学年一のイタズラ小僧よ」
クリスティーナはニコッと笑った。
「でもこの間アビー先生にやってたイタズラ、最高だった」
くすくす笑うそんな仕草さえ、クリスティーナはかわいらしかった。するとずっと俯いていたシャロンが、急に口を開いた。
「大人たち、鬱陶しいですよね」
クリスティーナが目を見開いた。
「もしかして、遺産問題ですか?」
一瞬の、沈黙。クリスティーナは事態を飲み込もうとしているらしかった。
やがてつぶやく。
「どうしてそれを?」
お湯の中に沈んだ彼女の体が一瞬揺らいだ気がした。
「簡単です」
シャロンが目を伏せながら答えた。
「こんな時間にお風呂に入ってる。モニークが『この時間なら誰もいない』と判断した時間なのに。授業が忙しくてお風呂が遅れた、とも考えられますが、それにしたって遅い。加えて、その豊かな髪が濡れた肌に貼り付いていない。しかも毛先が解けている。髪を洗ってから時間が経っていることが想像できます。となるとかなりの長風呂。きっと何かから逃げている。そして最近、学校に卒業生や外部の大人が出入りしています。そこに来て文学帝王の死。あなたは文学帝王の親族。きっと遺産問題だと、想像したまでです」
クリスティーナはぽかんとシャロンの推理を聞いていたが、やがて観念したように目を瞑った。
「すごい。名探偵ね。そうなの。伯父様の遺産問題で、この学校に親族が集まっているのよ」
クリスティーナの顔は沈んでいた。
「あなたたちにとっても迷惑よね。ごめんなさい」
「あなたが謝ることじゃないわ」
私は抗議する。
「大人が悪いのよ」
「うん、でも、私の親族だから」
クリスティーナの顔は沈んでいた。不思議なもので、私は彼女とさっき会ったばかりなのに、もう彼女の肩を持ちたい気持ちにさせられていた。そういう意味で、彼女は同性から見ても魅力的な女の子だった。理想の先輩、とも言えるだろう。
「その遺産、クリスティーナさんに相続の権利はないのですか?」
シャロンが訊ねる。クリスティーナは諦めたように首を横に振った。
「無理よ」
それから続ける。
「難しいもの」
「難しい?」
シャロンが首を傾げる。
「難しいとは?」
「うーん、ここで話すのはちょっと面倒ね」
クリスティーナは静かに目線を上げた。それからゆっくりと歩いて大風呂から出ていった。
「脱衣所で話しましょ」
そう告げて、彼女はお尻を揺らしてお風呂から出ていった。私はそれを見て、やっぱり「私もあんな風になりたいな」と、思った。
*
脱衣所にあったバスローブに着替えてから、ゴブレットに入れた水を片手に話を聞く。お風呂上がりの冷えた水の美味しいこと……!
お風呂から出ると、クリスティーナは脱衣籠にあった眼鏡をすっとかけた。やっぱり、目が悪いんだ……。しかし彼女の美貌は眼鏡をかけてもなお曇ることなく、むしろ純真そうな乙女としての一面を強調しているように思えた。
脱衣所の洗面鏡の前にあるベンチに座った彼女に倣って、私たちも座った。クリスティーナが話し始めた。
「私の伯父はね、あんな人だけど、ミステリーが好きで」
その程度ことなら驚かない。人の趣味は様々だ。
「自分でも書けばいいのに、『あまり上手くない』って。でも家族に謎を出すのは好きで……」
クリスティーナは懐かしそうな顔をした。
「昔は私の大好きなミンスパイを賭けて謎解きをしたものだわ。部屋の中に隠された、宝箱の鍵を探すの」
考えただけで……楽しそうだった。大好きな伯父とのゲーム。ご褒美は大好物。楽しくないはずがない。きっとクリスティーナの中でも、最高の思い出になっているはずだ。
「で、そんな伯父が死の間際に残したの」
そう、クリスティーナはローブのポケットから、ひとつの箱を取り出した。
「魔蓄箱よ。魔法細工で動くの」
「いつも持ち歩いているの?」
シャロンの問いにクリスティーナは答えた。
「うん。今は脱衣籠のカバンから持ってきたけどね。でも、基本的には肌身離さず」
そう、クリスティーナが取り出した箱は、ざっくり拳大くらい。表面には歯車やピンが仕掛けられていて、明かりを受けてきらりと輝いていた。
クリスティーナがパチリと箱の側面を押すと、箱の一面から映写機のように映像がひゅっと立ち上がった。箱を舞台にしたかのように、小さな人が映し出されている。そこにはあの、文学帝王がいた……本物を見るのは初めて!
〈親族諸君〉
文学帝王がしゃべり始めた。口元の髭がもごもご動く。
〈私にはそれなりの財産がある。死後それらは君たちに相続されるのだろう。それは容易に想像がつく。しかし、私としては、大して仲良くもない親族に私が生涯をかけて築いた財産を渡すのは癪なのだ。今まで私を邪険に扱ってきた人間が……〉
ここでクリスティーナが言葉を挟む。
「ほら、作家って疎まれるから。特にデビューしないうちは」
〈今まで私を邪険に扱ってきた人間が私の全てを手に入れるのは不快なのだ。だが相続権は遺族に平等に与えたい。これらの葛藤を解決する手立てとして、私はある方法を考えた。この箱にはその方法についてが録画されている〉
箱から射出される映像は続けた。
〈全てのカギはアルドリッジに。植物図鑑の一から三をホテルの雑用係は断るだろう。断るべきはガルゴリウス家の今年の収穫で、それはとても幸せなことなのだが。そうして導かれた鍵を、この箱の中に差し込め。私の金庫の番号が記されたカードが、出てくるに違いない〉
「急に意味不明」
私は率直な感想を述べた。
「全てのカギはアルドリッジに?」
「そうなの」
クリスティーナは頷いた。
「これは伯父様から親族に向けて贈られた暗号文っていうわけ。これを解けば箱が開いて、中にある金庫の番号が記されたカードが手に入る。この学校に大人が殺到しているのはそういうわけ」
はぁ。金庫の鍵の番号のために、学校を家探し。
「その暗号、さっぱりなの?」
クリスティーナが首を横に振る。
「誰も何も心当たりがないって」
「この学校に遺産の手掛かりがあるって思われてるの?」
「そうみたい。だって『全てのカギはアルドリッジに』だし」
ふう、とため息をつくクリスティーナ。バスローブの前はしっかり閉じられていて、そういうところに淑女としての気品の高さを伺える。
「この暗号文、誰かが漏洩したみたいなのよね。伯父様の仕事のパートナーだった出版社の人なんかも学校に来てる。で、私に訊くわけ。何か手掛かりを知らないか、伯父さん何か言ってなかったか。……こういうのならまだマシで、私が遺産を相続したら分けてくれるだろうね、なんてことを平気で言ってくる人もいる」
「何それひどい……!」
私は声を荒げる。
「人の死を何だと思ってるのかしら」
「ね」
クリスティーナの顔は沈んでいた。
「特に私の二人のいとこが熱心で。一人はアルドリッジの生徒で、ピエールって言うわ。スポーツ特待生。知らない?」
ピエール。スポーツ特待生。
「ピエール・コネット?」
「そう」クリスティーナは重く頷いた。
「私の父の妹の子供。七年生だわ。学校にいる時間が長いことをいいことに、そこら中引っ掻き回してる。頭が良くないの。その代わり根性で解決しようとしている」
「もう一人は?」
シャロンが訊ねた。
「ピエレット・フォン・ラインホルト・ローゼ。伯父様の末娘よ。伯父様のところ子供は不思議で、上二人の兄弟はこの一件に少しも関与しようとしないくせに、一番下のピエレットは血眼で遺産を探してる」
「その人もアルドリッジ生?」
続けられたシャロンの問いにクリスティーナは答える。
「ううん。株式会社グリムリッジの若手社員」
グリムリッジといえば、国内大手出版社。
「一応アルドリッジの卒業生だから、校内に立ち入る権利はあるの」
「他にはどんな人が?」
「グリムリッジ以外にも、父の仕事を手伝っていた出版関係者が何人か。後は賞金稼ぎが何人かと……でも、ほとんどが親戚かもね」
恥ずかしいわ、とクリスティーナは嘆いた。
「ローゼ家は誇り高き一族だったのに、お金をめぐって、こんな……」
「仕方ないよ」
シャロンが同情的な目をクリスティーナに送った。
「みんな、生きるのに必死」
「そうね。でも、大事なものってあると思うわ」
はぁ、とクリスティーナがため息をついた。深くて重い、そんな吐息だった。
そんなため息を見て、私はふと思いついた。クリスティーナの悩みも解決し、さらに最近鬱気味のシャロンの気を紛らわせる画期的な方法!
「ねぇ、シャロン。あなたこの話興味ない?」
「えっ」
シャロンがびっくりしたように顔を上げた。その拍子にバスローブの前が解ける。私はそっとそれを直してあげながら、続けた。
「聞いたところ、頭脳労働って感じ。あなたにぴったりだし、クリスティーナとしても、さっさとこの問題を終わらせて、なおかつ遺産まで手に入ったらラッキーよね?」
「うん。まぁ……」
クリスティーナも何だかびっくりしたような顔で私たちを見ている。
「できるの? この暗号文を解くこと」
「シャロンならできるわ」
そうして送った私の目線を、シャロンはしっかりと受け止めて、それから笑った。やった……! その笑顔が見たかったの!
「もう何か分かってるの?」
シャロンの笑顔を見たクリスティーナが身を乗り出す。するとシャロンが小さく頷いた。
「いくつかヒントを得ました。検討すれば何かしら分かるかと」
「すごい……」
と、驚くクリスティーナを差し置いて、シャロンはつぶやいた。
「『それはなんたる幸せ』。私もフィルベルトさんの作品を読みましたから」
『それはなんたる幸せ』。
文学帝王が国内最高峰の文学賞、〈女王の本棚文学賞〉を受賞した時の作品のタイトルだった。私も読んだことがある。日雇い労働者に娼婦。場合によっては最底辺の労働者階級とも言われる男女が紡ぐ、笑いと涙の喜劇。
「シャロンにお任せください」
私も胸を張る。それからゴブレットで乾杯した。ここに私たち三人の契約関係が……そして友情関係が成立した。クリスティーナも話せたことが嬉しいのか、ホワホワした顔をしていた。
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