さようなら、わたし
壱単位
【短編】さようなら、わたし
徳川の治世も末期だから、城といってもおおきいものではない。
むしろ、山々がたおやかにつながり、桜が咲き誇るこの風景のなかで、その建物は、趣味のよい屋敷というかたちで、小高いこの地にかまえらえれている。
いま、その広間で、うでを組んで眉を寄せているものがある。
「……では、いいわけはしない、というのだな」
不破家十一代当主、六次郎大我。この城の主人である。
不破家の祖は、家康公の覇業に貢献したとされている。神官の出である始祖は、けっして表に出ることがなかったが、その神がかった占術と祈祷の実力により、史上もっともながくつづく政権を立ち上げることに尽力し、厚遇された。
のちの歴史書にあらわれぬこの不破家は、だが、政治的な理由とも別に、現実の問題として、このくにに欠くことができぬ存在として一目おかれている。
龍の、折伏。
龍とは、わざわいである。この地、このくに、政権に仇をなすすべての怨敵を、その祈祷力により封じ込める。不破家のちからがあるからこそ、未曾有の数百年にわたる、このくに最長の政権は維持されているといえた。
「……申し開きは、ございません」
大我の正面、そうとう離れた場所に、平伏しているのは、ひとりの姫。
おとなになりきっていない、しかし、儚げに透き通るようなその肌は、ひとを離れたとみえるほどに美しい。薄紫の打掛が身をつつんでいる。ちりゆく桜を白であしらったその紋様は、流麗ではあるが、彼女のなんらかの意図を帯びているように見えた。
かんざしに、蒼い、珠がひかる。蒼は、このくにでは龍の象徴とされている。
彼女をかこみ、重臣とおぼしき数人のおとこが、居並ぶ。警護なのか、あるいは別の目的があるのか。いずれも帯刀している。当主の面前で、きわめて異例のことである。どの表情も、極度の緊張にさらされている。
「おりう……いや、
大我は苛立ちをかくさぬまま、扇子をたたみ、そばに控える僧侶を指し示した。僧侶は、震えながら、ふたり、そして周囲の重臣たちをみまわし、顔を隠した。
「……はい」
「このものの卦によれば、そなた、当家の世継ぎが、わざわいを得た、と」
「……おおせの、とおりでございます」
「……っ! こどもの戯言を申すな! わざわいの意味がわからぬのか!」
おりう、李雨姫は、ながい睫毛を伏せたまま、わずかに身を起こした。
「その僧が先刻、もうしたとおりでございます。わたくしは、
言い、胸のしたに手をあてる。
そのことばを聞いて、大我の一段下で、さきほどから侍女たちの介助を受けながら、かろうじて意識をたもっていた母、
「……そなた。折伏の
「……妹、
扇子が投げつけられる。李雨は避けず、ひたいに、傷がついた。大我はそれをみて、わずかに腰を浮かせ、しかしふんと息を吐き、また座についた。
「……相手は」
李雨は、しばし黙した。
「……もうしあげられません」
大我の目が、これ以上は不可能というまでに、見開かれる。血走っている。
「……いわぬのなら、きらねば、ならぬぞ」
「もとよりの、望みでございます」
李雨の額が、最上等の畳のおもてにおしあてられる。
「……よかろう」
大我は、いくばくかの時間を逡巡し、しかし、左右のさむらいに目配せした。さっと顔を紅潮させたおとこたちが、脇差に手をかけ、一斉に立ち上がった。
「おまちください」
李雨が、やおら身を起こし、まっすぐに大我をみつめて、ことばを発した。
「さいごに、ひとことだけ、口上をお許しください」
「……いいだろう」
李雨が、あらたまる。まっすぐに引き結ばれた、薄紅がのる、ちいさなくちびるをひらく。わずかに、黙る。ほほに雫がおちる。
「おとうさま。おかあさま。これまで、ほんとうにありがとうございました。わたくしは、不忠の子でございます」
「……」
大我は、まっすぐ、李雨の目をみている。そのおもざしに、瞳のいろに、憤怒以外のものが浮かんでいることは、こどもにすら直ぐに知れることだった。
「妹、昰亞は、かしこい子です。わたくしのことは本日をもってご放念いただき、どうか、どうか、妹とともに……」
そこまでいい、李雨は、ふところから何かを引き抜いた。
春のひかりを受けて、短い刀身が、きらめいた。
腰を浮かせる、大我、そして重臣たち。
が、その手を伸ばす間もなく、李雨は、やいばを自らの胸に突き立てていた。
「……おりうっ!」
駆け寄ろうとする大我。
しかし、静謐な室内にふいた突風が、かれらの脚をとめた。
突風は、黒い砂塵ともみえた。
砂塵が徐々に渦をなし、胸をおさえる李雨のまわりを、まわる。
李雨が、刃を引き抜き、示す。
剣先には、退魔の木札。あらゆる魔のものを退けるちからをもつものとして、この家のものは、ひとりひとり、必ず携える。李雨は、それを、刃で貫いていた。
大我も重臣も、目を開けられない。
その合間にも、砂塵はかたちをつくり、やがてひとりのおとこの姿になった。
李雨のよこに、異国の黒い装束を身に纏った、銀の長髪のおとこがたっている。その瞳は、神韻をおびて、蒼くしずかにひかっている。
「……おりう。もう、いいのか」
李雨をみおろし、おとこは、遠慮がちとも思える声を出した。
李雨は、微笑む。頬を甲でぬぐい、おとこを見上げた。
「はい。おわかれは、済みました」
「そうか。では、ゆくぞ」
おとこが腕を振ると、あらたな風がおこった。
こんどの風は、かれの髪と似て、銀のかがやきに満たされている。
その風の中で、おとこの姿が、龍になった。
みずからひかりを放つ、銀の、龍。
「……さあ、乗れ」
慣れた様子で李雨がまたがる。と、ちからを入れる様子もなく、ふわりと浮かび上がる、龍。障子を尾でうちはらい、するっと、でてゆく。
目を開けた大河が、重臣が追うが、すでに龍と李雨のすがたは、ふかい春のそらのなかで、ひとつの点となっている。
「……おりう、よ」
「はい」
もうすぐ雲にいたろうかという空のうえで、龍は、恐る恐る、という声をだした。
「これでよかったのか。わたしに脅され、無理強いされたと、申し開くこともできたであろうに」
「よいのです。家には、妹がいます。それに、わたしは、自分で望んだのです」
神力でまもられ、上空の風は彼女を虐めない。やわらかく、その黒髪をなでる。すでに紐解かれたその髪は、自由をうたうように、ながく、ながく、空のひかりをうけてたなびいている。
「幼い頃からわたしを見守ってくれていた、龍神さま。あなたの妻になることが、わたしのほんとうの願いでした」
「……もう、ひとには、戻れぬのだぞ」
李雨……龍神の妻は、その夫とおなじ、ふかい蒼の瞳をかがやかせて、わらった。
「わたしは、龍。あなたの子の母。ねえ、わたしも、飛べるようになるのかな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます