告白はお前を倒した後で

もう充分待ったから

 夕日の差し込む道場内は、しん、と静まり返っている。その中央で竹刀を合わせ、蹲踞そんきょ姿勢のまま睨み合っていた2人が、同じタイミングで立ち上がった。気合のこもった発声と共に、お互いの竹刀の先を探るように打ち付け合う。


 正眼の構えのまま左足の踵を上げ、前後左右に動きながらも、相手の喉元から剣先は離さない。少しでも隙を見せればいつでも打ち掛かられる、という緊張感が辺りに漂った。


 睨み合う2人は、動きからするとお互いに実力者のようであるが、身長の差がかなりあり、腰に巻いた垂れに由木ゆぎと書かれた体格の大きい方が優勢に見えた。竹刀を打ち下ろす技が多い剣道という競技において、身長の高さはかなり有利に働くものである。


 一方、もう片方の、御堂みどうと書かれた垂れを着けた小さい方は、視界の狭い面の隙間から、眼光鋭く相手の隙を伺っていた。左右に揺れる小さな体には油断がなく、握った竹刀の剣先にもブレがない。


 少しの間剣先が打ち合い、御堂がちらりと由木の右小手に視線をやったその時であった。道場内の隅まで轟く激しい気合とともに、由木が御堂の竹刀を左に軽く払い、その勢いのまま面に打ちかかった。


 逞しい体躯から繰り出される鋭い竹刀の振りに、勝敗が決したかと思ったその時、御堂は自らの竹刀を素早く横に構えて由木の竹刀をいなし、打ちかかってきたその勢いを利用して由木の竹刀を巻き込むと、くるりと竹刀を回転させて、バランスを崩し少し下がったた由木の頭に、気合とともに面を打ち込んだ。パァン!という乾いた音が道場内に響く。


 審判がいない為、面あり、の声さえなかったが、面を打たれたまま動かなくなった由木の様子からしても、勝敗は明らかだった。誰が見てもきれいに決まった面は、一本に相違ない。それを打った御堂は、由木の後ろで残心をとりながら、ふーっ、と長く息を吐く。


「御堂くんかっこいい!」


 未だ緊張感を残す静かな道場に、1人の女生徒が上げた黄色い歓声が響いた瞬間、我も我もときゃあきゃあという黄色い声が続く。由木が体制を立て直して道場の入口を見ると、いつの間にか制服姿の女生徒が10人か15人程、うっとりとした目でこちらを見つめていた。由木は、またか、と面の奥で小さく舌打ちをする。


「だーーっ!!うるっせえんじゃ女ども!散れ!」


 乱暴に汗で濡れた面を脱ぎ、入り口に向かって叫ぶ。ブンブンと竹刀を振り回しながら入り口に近付くと、キャーとか最低!とかいう様々な声と共に女生徒が道場から出ていった。バタン!と木製の扉が大きな音を立てる。


「全く……」


 由木がドスドスと音を立てて道場内に戻ると、御堂はピンと背を伸ばし、正座をして面を取っているところだった。面の下に被っていた手ぬぐいを取り、頭をブルブルと横に振っている。由木はそれを濡れた犬みたいだ、と思ったが、多くの女生徒はそうではないらしい。いや、それがかわいいとか言うのか……?由木は背中に悪寒を感じた。全く理解できないが、毎日毎日飽きもせず、多くの女生徒がこの男のご尊顔とやらを拝みに来ている。


「おい」


 正座のまま手ぬぐいで汗を拭う御堂に上から声をかけると、ゆっくりと長いまつげを動かしながら、御堂は頭を上げた。なんだ、と由木と目を合わせる。


「まだ終わってねえ」


「もう5本取った。団体戦でもストレート勝ちだ」


「うるさい!3本目くらいから女どもがいただろ!」


「だからなんだ」


「気、が、散っ、た、ん、だ!」


 バンバンバンバンバンバン、と由木が言葉を切った数だけ道場が揺れた。剣道では、竹刀が当たる時の音や気合の大きさ以外にも、相手へ打ち掛かるときに行う踏み込みの正確さも技の有効性の審査基準になる。御堂は、よく音の鳴る足だ、と由木の右足の動きをじっと観察していた。


 由木と御堂は、高校に入学してから同じ剣道部に入部した期待の1年生だった。確かにお互い大会では結果を残しているものの、中学時代に大会でボコボコにされた経験から御堂を目の敵にしている由木と、自分より弱い相手を覚えていない御堂は面白いほど相性が悪く、3年に進級した今も、部内では犬猿コンビとして恐れられている。とはいえ、大体は由木が勝手に突っかかっているだけなのだが。


 由木は、御堂の傷1つないきれいな銅を見て、忌々しげに舌打ちした。どうして自分は、いつまで経ってもこんななまっちろい優男に勝てないのだ。


 鍛錬は怠っていない。むしろ御堂より稽古を重ねている自信もある。県内イチの強豪校に、無理を言って1人で出稽古に行ったことだってある。あのつらい練習は、自分の血にも肉にもなっていないのか。右手に思い切り力を込めると、ギシギシと竹が軋む音がした。


 しばらくして、すっ、と無駄のない動作で御堂が立ち上がる。面を片手で拾い上げると、竹刀を脇に抱え、道場の奥へ歩いていった。


「おい!もう1本!」


「やらない」


 御堂は倉庫の扉を開けると、棚に自分の面を起き、竹刀を収納した。倉庫の中はほこりっぽく、剣道部特有の汗を煮詰めたようなきつい臭いがする。もう慣れてしまったのか、表情を変えずにテキパキと片付けをしていると、その後ろから、扉を塞ぐように由木がイライラと仁王立ちした。


「逃げんのか」


「逃げてるのはお前だろ」


「ああ!?」


 バン!とまた足を踏み鳴らす音が道場内に響いた。由木と御堂以外に誰もいない道場に、大きな音が声と共に反響してわんわんと小さく鳴っている。


「今のままじゃ俺には勝てない」


「なんだとテメー」


「言い訳ばかりの奴には負ける気がしない」


 御堂は振り返らずに片付けを続けている。ガタガタと音を立てて整理されていく用具と、細い体ながらまめが何度も潰れた痛々しい跡のある御堂の手のひらを見て、由木はぐっ、と悔しそうに息を漏らした。


 しかし、由木にも引けない理由があった。自分に目もくれずに横を通り過ぎる御堂の道着を引き寄せ、乱暴に胸ぐらを掴む。20cm以上ある身長差のせいで、御堂は少し背伸びをする格好になった。


「だから、今から俺はお前を……」


バタン!由木が言いかけたところで、またしても道場の扉が大きな音を立てる。今日は稽古は休みのはずで、部員がここに来ることはない。誰が来たのだ、と由木は御堂を掴んでいた手を離した。


「また負けたの?」


 ぺこり、と丁寧に一礼し、長いストレートの黒髪を腰まで伸ばした小柄な女生徒が道場へ上がってくる。身長は御堂より少し小さいくらいだが、意志のある大きな目をしていた。由木と御堂を視界に収めると、はあ、とため息をついて、スタスタと木張りの床を歩いてくる。


千夏ちなつ……!」


 ズンズン近づいてくる千夏と呼ばれた女生徒に、由木が気まずそうに後退りした。しかし、なおも千夏は、眉を怒らせて由木へ詰め寄る。


「あんたねえ」


 あっと言う間に由木の大きな体を壁際に追い詰めた千夏は、すぐ下から由木を睨み上げる。「御堂くんに迷惑かけない!」


 だって、いや、その、でも、由木はしどろもどろになり、真っ赤な顔を大きな手で覆った。その光景を後ろから見ていた御堂は、幼馴染であるらしい2人のいつもの光景を、仲が良いな、とこれまたいつものように頷く。このやり取りは、剣道部内ではよく見られる名物痴話喧嘩であった。


 指の隙間から見える千夏の、ちっとも怖くない怒り顔に、あ、とか、うう、とか、由木がまともに言葉を話せなくなるのもいつものこと。千夏はまたため息をつくと、手を腰から離した。


「あんたが、御堂くんに勝たないと私に気持ちを伝えられないとか訳わかんないこと言うから待ってあげてたのに」


「それは、弱い俺じゃお前を守れないから……」


「また言い訳ばっかり!」


 まさか5分程度の間に別の人物から同じことを2度も言われるとは……由木がそっと顔から手を離して項垂れると、その手を小さな白い手がぎゅっと握った。ヒェッと、手を握られた巨体から野太い悲鳴が上がる。


「もう2年も待った。いや、3歳のときからだから14年くらいか」


「いつから知ってたんだ!?」


 慌てる由木の手を、千夏は更に強く握る。痛い痛い痛い!と由木から声が上がると、パッと手を離し、また下から睨み上げた。


「御堂くんに迷惑かけないためにも」


「えっ」


 ぐっ、と千夏が更に距離を詰め、背伸びをして由木の両肩に手を置いた。胸に当たる千夏のサラサラの髪にどきまぎしながら、肩を強く押された由木は、頭にクエスチョンマークを乱立しながらもそれに従い腰を屈めた。


「もう言い訳させない」


 一瞬の出来事だった。


 千夏が由木に顔を寄せたと思うと、後頭部に両手を回し、静かに目を閉じて唇を重ねた。あまりの出来事に、普段は冷静沈着でほとんど表情を変えない御堂も少し目を見開く。


 キスされた。


 由木が頭で理解する頃には、千夏は由木から手を離し、頬を少し赤らめて微笑んでいた。由木は、今起こったこと自体は理解したが、処理が追いつかず、シパシパと瞬きをしたまま固まっている。


「じゃあ、また明日ね」


 千夏はスカートを翻し、来た道を戻っていく。パタン、と珍しく静かに道場の扉が閉まったところで、由木がはっ、と意識を取り戻す。


「は……?なんだ今の……?」


 一拍遅れて、竹刀が音を立てて道場の床に転がる。目の前で揺れる黒髪が光を反射してキラキラ光る様が、由木の頭に何度もリフレインする。今でも手を伸ばしたら掴めそうな、リアルな情景が、道場内に再生された。


「また一本とられたな」


 日が更に傾いたオレンジ色の道場で、やけに鮮明に頭に残る千夏の照れた笑い顔を思い出しながら、由木は聞き慣れたライバル・御堂の声を遠くに聞いていた。

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