第9話 馬鹿みたいに求める親の愛
「これは、お掃除しないとですね……」
「私たちも手伝うから。もう、そんな気まずそうな顔しないの。美海さん」
荒れ放題のアパートの一室。凛音とお母さんは窓を開いて換気していく。私は肩をすくめて、汗をぬぐいながらペットボトルを拾い集めていた。部屋中にたまった埃のせいで、時々二人はせき込んでいる。
退廃的な生活を明け透けにされてしまったことを恥ずかしく思っていると、お母さんは心配そうに私に声をかけてきた。
「ちゃんとご飯とか食べてたの? 大丈夫?」
「……カップ麺とか食べてました」
するとお母さんは大きくため息をついて、私の肩を叩いた。
「これからはきちんと凛音に料理を作ってもらうのよ? 私がちゃんと教え込んでるから、味は保証するわ。食材とかもきちんと買いに行くこと。いいわね?」
「そうだよ。美海さん。私に任せてね。今日のために修行してきたんだから」
「あなたには長生きしてもらわないといけないんだから。本当に、頼んだわよ?」
凛音とお母さんに口々にお説教を受けて、私は平身低頭するしかなかった。私の命はもう、私だけのものではないのだ。「これからはちゃんと生きます」と頭を下げて、私はまた片付けに戻った。
凛音もお母さんもてきぱきと荒れ果てた部屋を片付けていく。二人とも私よりもずっと手際がいい。それを見ていると、真面目に生きてきたんだなと感じる。
掃除をしていると、私は食器棚の上に、埃だらけになった写真たてをみつけた。なにやら写真が入っているけれど、埃のせいで見えないから、濡れた雑巾で拭う。
私は目を見開いた。
そこには小学生くらいの頃の私と兄と、若い両親の四人が映った写真が入っていた。遊園地でとった写真のようで、みんな笑顔だ。
私はしばらく呆然として、それをみつめていた。でもすぐにため息をついて、肩を落とす。
これはもう、捨ててしまおうと思った。
これからの人生は凛音のための人生だ。私の人生にまつわるものは捨ててしまったほうがいい。
私は写真たてだけ残して、写真を抜き取った。そしてそれをゴミ袋に捨てようとする。だけど間の悪いことに、それを凛音のお母さんにみられてしまっていたみたいだ。
「写真? 捨てる前に見せてくれないかしら?」
凛音のお母さんは写真を手に取って「どれどれ」とみつめる。するとすぐに「あらかわいい」と高い声をあげた。その声に反応した凛音も雑巾がけをやめて、写真を覗き込んでいた。
「も、もしかしてこれ、ちっちゃいころの美海さんですか!?」
すぐに興奮した様子で、私をみてくる。
「……うん。一番ちっさいのが私で、その隣が兄さん」
「かわいいー!」
「美人ねぇ」
凛音とお母さんは口々に私を褒めてくる。そんなに可愛いのかな? 疑問だけど話題がお父さんやお母さんに向かないことはありがたかった。できればこのまま、写真をゴミ袋に戻してほしい。
そう思っていたのに。
「どうしてこんな素敵な写真を捨てようとしたの? 美海さん」
やっぱり聞かれたくないことを、聞いてきた。
「……もういらないと思ったので」
「どうしていらないの?」
お母さんは真剣な表情で私をみつめてくる。
「……私、そんなに両親と仲良くないんですよ。凛音さんとパートナーになったことですし、これから先、ますます顔を合わせる機会も少なくなるでしょうし、いらないものだから捨ててしまおうかと」
聞こえてくるのは、蝉の鳴き声だけだった。嫌な沈黙が続いて、私はなにか喋らないといけないような、急きたてられているような気分になった。
「きっと両親も、私のことなんてどうでもいいって思ってるはずなので。明日を最後にもう、顔を合わせるつもりもないですし。こんなもの残しておいても、気持ち悪いだけじゃないですか。……幸せな過去に縋ってるみたいで」
「ご両親のこと、大好きなのね」
「えっ?」
凛音のお母さんは写真を凛音に手渡して、私の手を両手で握り締めてきた。
「私はあなたの家庭のこと、よく知らないわ。でも親としての気持ちは分かる。親はね、みんな子供のことを大切に思うものなのよ。特にあなたみたいな健気な子からは、離れたくても離れられないものなのよ。表面ではどれだけ突き放していたとしても、本心では、きっとあなたのことを愛しているわ」
凛音のお母さんは、正しいことを言っているのだと思う。でも。
「は、ははっ」
引きつったような笑い声が、口から漏れ出してくる。
あの両親が私を愛している? そんなわけない。
凛音が輝いて見えた。大切に、大切に育てられてきたのだろう。そのことをお母さんの至極常識的な見解からまた理解させられてしまう。目をそらしていたのに、否応なしに突き付けられてしまうのだ。
なんで私はこんななんだろう? 親に愛されることを諦めればいいだけなのに。ずっと固執してて、人並みに生きることも出来なくて、やっと求めてくれる人に出会えたのに、その人にすら嫉妬して。
視界が歪んだ。頬を生ぬるい雫がこぼれていく。誰かに抱きしめてもらいたかった。温もりに救ってもらいたかった。でもそんなのあり得ないって分かってる。私はずっと一人だった。涙の夜だって、誰も私を助けてくれなかった。
歪んだ視界では何も見えない。私はこの世界に一人ぼっちなのだ。
でもそのとき、全身が温もりに包まれた。
「美海さん」
凛音の声だった。
「大丈夫です。大丈夫ですよ。もしも、ご両親が美海さんを愛してくれなかったとしても、私は美海さんのそばにいますから。だから、泣かないでください。私だって悲しいんですよ? 美海さんが泣くのを見ると、私だってほら」
凛音の声は震えていた。歪んだ視界の向こう側に、微かにみえた凛音は。
「泣きたく、なってしまうんです」
私のためだけに、その美しい顔を涙でくしゃくしゃにしてくれていた。
お母さんも私の頭を優しく撫でてくれている。
「美海さん。きっと大丈夫よ。大丈夫」
そんなことをされたら、なおさら私は泣き止めなくなってしまう。泣いているとき、人にこんなに優しくしてもらったのは初めてで。嬉しくて切なくて、涙が止まらなくなってしまうのだ。
抱きしめ合う私たちを、お母さんはぎゅーっと抱きしめてくれた。「大丈夫よ。大丈夫よ」と繰り返してくれる。私はその心地いい感覚に身を任せて、目を閉じる。
ほんの少しだけ、自分のことも、凛音のことも、好きになれそうな気がした。
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