第8話 好きなもの

 役所にたどり着くと、すぐに整理券を取った。それなりに込み合っている。でもソファに座ってじっと待っていると、すぐに私たちの順番がやって来る。お母さんに私と凛音が手を繋いでいる所をみられたけれど、微笑まれただけだった。


 窓口で役所の人に生贄病のことを話すと首をかしげられた。それだけ知名度が低い病気なのだろう。生贄病のことを知らない職員は「少々お待ちください」と頭を下げてから、他の職員に聞きに行っていた。


 その間、私は生贄病のパートナー制度について思い出していた。


 スマホで調べてみると、この生贄病のパートナー制度に懐疑的な声は多かった。ただ一緒にいるだけで月々30万円は多すぎだ、という声が大多数だ。私もそう思う。私なんかの人生に月30万円は確かに多い。


「美海さん。私たちって、やっぱり珍しいんですね」


「みたいだね」


「私が病院でみてもらったときも、病名を突き止めることのできるお医者さんは少なくて、いくつもの病院を巡ってやっとでしたから」


「お待たせしてすみません。書類はお持ちでしょうか?」


 眼鏡をかけた白髪混じりの初老の男性が受付にやって来た。その風貌はベテランといった感じで、頼もしい。凛音のお母さんはすぐに診断書などの書類を手渡していた。それを手にした男性は頷いて、私たちにパートナー制度利用の申込書を手渡してきた。


 そこには長々とたくさんの規約が書かれていて、私が勝手に想像していた婚姻届けみたいな書面とはまるで別物だった。


「詳しいことはそれを読んでもらったらいいとして、一番重要な点を私からは。ご存知とは思いますが、一度パートナーになってしまえば、パートナーの元から離れることは法律違反となってしまいます。貯蓄に余裕があるのなら、パートナー制度は利用しないほうがよろしいかと思います。それでもご利用なさるのですね?」


 手を繋いでいるのをみて、対象が私たちだと理解したのだろう。初老の男性は私たちに目を向けてくる。凛音は私の方を心配そうにみつめていた。


 私たちは規約を一通り読んでから、答える。


「利用します」


 私がそう告げると、男性は驚きを隠さなかった。


「十年間ですら、共に過ごせたパートナー制度利用者はいないのですよ? 本当にいいのですね?」


「いいです。私は凛音に人生を捧げる覚悟なので」


 固く繋がれた私たちの手をみて、何を思ったのか。


 初老の男性は「頑張ってくださいね」と微笑んだ。


 隣をみると凛音も喜びを隠せないようで、頬を緩めて目を細めていた。お母さんもほっとしたように、胸をなでおろしている。


「それではサインをお願いします」


 私たちはそれぞれ、書類にサインをする。そして最後に指印を押した。


「はい。これで完了しました。相談があればまたご利用くださいね」


 私たちは男性に頭を下げて、役所を出た。夏らしく暑い中、車に乗り込むとお母さんが声をかけてくる。


「美海さんのご両親、いつ頃なら都合が良さそうかしら?」


「それがまだ連絡が帰ってこないんです」


 そう告げて、スマホをみると返事が来ていた。


『明日の夕方』


「あ、返事来てました。明日の夕方なら都合がいいみたいです」


「分かったわ。それじゃあ、いったん荷物を取りに、私たちの家に向かうわね。そのあと、美海さんのアパートに向かうってことで」


「はい」


 私は返事をして、またスマホをみつめる。


『明日の夕方』


 そのたった五文字は私への関心が如何に低いかを示しているようにみえた。


 うつむいていると、凛音が手に手を重ねてくれた。「大丈夫ですよ」とでもいうみたいに、微笑んでくれる。私は微笑み返して、スマホを閉じた。


 しばらくすると凛音の家にたどり着いた。私は凛音に手を引かれるまま、家の中に入り、凛音の部屋に向かう。凛音の部屋は可愛らしい小物がたくさんあった。女の子の夢が詰まったような部屋だった。


「美海さんも手伝ってくれませんか?」


 クローゼットを開けた凛音がつぶやく。


「最近は手つかずで、趣味を外れたものも結構あるので、もっていくもの美海さんに選んでほしいです。美海さんはどんなのが好きですか?」


 私の、好きなもの。


「……そんなの考えたことなかった。嫌いな自分の好きなものなんて、好きになれるはずがない。そう思っていたから」


 すると凛音は悲しそうな顔をして、大きなくまのぬいぐるみのところまで歩いていった。かと思うと、大きなくまのぬいぐるみを両手に抱えた。


「美海ちゃんは、どんなのが好きなのかな?」


 ゆさゆさとくまを揺らしながら、少し低めの声でつげる。私は目を細めて、凛音の腹話術をみつめていた。すると凛音は恥ずかしそうに頬を赤くして、くまの後ろに完全に隠れてしまう。


「ちょっとくらい何か反応してくださいよ。恥ずかしいじゃないですか」


「凛音は可愛いね」


 私が微笑むと、はみ出した凛音の耳は真っ赤になっていた。でもすぐにくまの後ろから顔を出したと思うと、心配そうな表情で問いかけてくる。


「美海さんの好きなもの、教えて欲しいです」


 凛音に抱きしめられたくまはつぶらな瞳で私をみつめている。


「凛音、かな」


 私は凛音に歩み寄った。


「み、美海さん!?」


 私はそのまま、凛音をベッドに押し倒した。そして抱きかかえられたくまをそっと脇に移動させる。凛音は私から目をそらして、でも時々、私に視線を向けて、どぎまぎしている様子だった。きっと凛音は私のことが、本気で好きなのだろう。


 でも私には、好きなものなんてない。なにが好きだとか、誰が好きだとか、そういうのを感じ取るセンサーが私からは消えてしまったのだと思う。そんな余裕、私にはなかった。私の世界は好きなものではなく、嫌いなもの、羨ましいもの、憎たらしいもの。そういう、薄汚れたもので形成されていたのだ。


 だから、凛音が羨ましい。綺麗な凛音が、本当に。


 私が顔を近づけると、凛音は慌てて目を閉じていた。白い肌は紅潮していて、触れると熱く、慌しい鼓動が伝わってくるようだった。


 唇と唇が触れあう。私は凛音にしてもらったように、上唇と下唇を交互に包み込むようにして挟み、吸い上げた。


 そのたび、凛音から甘い声が漏れてくる。その嬌声は私の興奮を煽った。綺麗な凛音を汚い私が食んでいる。その構図に、私は興奮をしたのだと思う。


 舌を伸ばして、凛音の中に入れようとする。すると凛音は目を見開いて、涙目で私をみつめていた。


「本当にいいの?」とでも言いたげな顔だった。私が拒んだことを凛音は覚えているのだろう。好きじゃないから、という理由で。もしも今、そういうことをすれば、凛音は私が凛音のことを好きになったのだと思うかもしれない。


 私は凛音から唇を離した。凛音は荒い息で、私をみつめている。涙のたまった目は、ずいぶん残念そうにみえた。


「私は凛音さえついてきてくれるなら、何でもいいよ。だから凛音が決めて欲しい。もっていくものは」


 私はベッドをきしませながら、立ち上がった。背中を向けると、凛音もそっと起き上がる音がした。なんだか気まずい空気になってしまったから、私は振り返って告げる。


「もっかいキスする?」


「……美海さんのえっち」


 それだけ告げて、凛音はぷいと顔をよそに向けてしまった。でもその横顔は嬉しそうだった。私からキスしてもらったのが、良かったらしい。


「あの、美海さんって、私のこと、好きなんですか……?」


「さぁ、どうだろうね」


「だったらどうしてキスを?」


「凛音がしてほしそうにしてたから」


 すると凛音は顔をなおさら赤くしていた。


 それから凛音は、大きなくまのぬいぐるみと、いくつかの衣服をもっていくことに決めた。あとは学校のテキストとか、カバンとか体操着とか、そういう必需品。かなりの大荷物だから、お母さんの車に運ぶのを私も一緒に手伝った。


 引っ越しの作業はつつがなく続けられて、一時間程度で終わった。それから私と凛音はお母さんの車に乗って、アパートへ向かう。でもそこで私はふと思いだす。アパートがペットボトルやゴミで溢れているということに。


 凛音は後部座席の隣で、キラキラした笑顔で私をみつめてきている。でも残念なことにその期待には答えられそうにもなかった。

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