第10話 比翼の鳥みたいに

 結局、写真は写真たてに戻すことにした。食器棚の上に、四人の写真が笑っていた。


 夕焼け色の空がみえる頃、ようやく掃除が終わり、私たちは窓を閉めた。凛音のお母さんは「そろそろ帰るわね」とアパートを出ていった。


 そうして私と凛音は二人きりになった。ローテーブルを挟んで向き合っている。しばらくたわいもない話をしていると、そろそろお腹が空いてきた。いつもならカップ麺を食べるところなのだけど、不摂生はだめだといわれてしまった。


 どうしようかと思っていると、凛音が微笑んだ。


「美海さん。夕食、そろそろ作るのでついてきてもらってもいいですか?」


「少しくらいは手伝わせてね」


「ありがとうございます」


 私たちはキッチンに向かって冷蔵庫を開いた。カップ麺暮らしの私だ。当然、お酒とお茶くらいしか入っていない。凛音は意外そうな顔をしていた。


「美海さんってお酒飲むんですね」


「すぐに子供みたいに泣くから、意外だった?」


「私の中で美海さんって大人の女性って印象だったんですけど、赤ちゃんだったり、子供だったりですね。最近は」


 凛音は楽しそうに微笑んでいた。私は肩をすくめて聞き返す。


「幻滅した?」


「いえ。本当の美海さんを知れて、良かったです。印象だけで恋をしていた頃からすると、ずっと進めたような気がします。内面を知っても、美海さんを好きだって気持ちは変わりませんよ」


「……よかった。嫌われるのは嫌だから」


 私のために泣いてくれる凛音に嫌われるのは怖い。


「嫌いになんて、なりませんよ。美海さんは私の運命の人ですから」


 凛音は冷蔵庫を閉じながら、真剣な目つきで私をみつめてくる。でもすぐにうつむいたかと思うと「むしろ嫌われる方が怖いです」とか細い声でつげて、すぐにはっとした表情を浮かべる。


「そんなことより、お茶とビールでは料理できませんから、二人で一緒に買い出しに行きませんか?」


「分かった。お金は私が払うね」


「いえ。私が払います。お母さんから渡されてるんです。お金」


「いいよ。来月から三十万円もらえるわけだし、貯金は一か月もつくらいはあるし」


 私は凛音の手を握る。すると、凛音は不安そうな表情でためらいがちに私の手を握り返してくる。だから私は精一杯の優しい声でつげる。


「心配しなくても、私、凛音のこと、嫌いになんてならないから」


 すると凛音は「だったら私にキスしてください」と告げた。


 キスの一つで信じてくれるのなら、断る理由はない。私としても凛音とのキスは好きな方だし。とはいっても、比較対象がいるわけではないんだけど。


「分かった。でもお金は私に払わせてね」


 凛音は不服そうに頷いた。そうして、私は凛音に軽いキスを落とした。


 それから私は凛音と一緒にアパートを出て、近くのスーパーへ向かった。夕暮れの街からは相変わらず蝉の声が聞こえてくる。昼間はやかましいとしか思わなかったけれど、日が沈みかけているだけでどこか物悲しい感じに聞こえてくる。


「今日は何を食べたいですか?」


「なんでもいいよ。なにか作りやすいのでも適当に」


 返事が返ってこないなと隣をみると、凛音は夕焼け色に照らされて頬を膨らませていた。


「私は美海さんが食べたいものを作りたいです」


「食べたいものなんてないよ。食べたくないものはあるけど」


「好きな食べ物とかないんですか?」


「嫌いな食べ物はある」


 凛音は眉をひそめていた。そんな表情されても、私の世界には好きなものなんてないのだ。そういうセンサーはとっくの昔に壊れてしまっている。好きなものを好きだといえるのは、それを受け入れてくれる土壌があるからだ。


 両親は兄の好きなものばかり作っていた記憶がある。だから私は次第に自分の好きなものを探すのをやめた。嫌いなものばかり探していたのだ。両親の寵愛を受ける兄とか、兄の好きな食べ物とか。


「一応聞かせてもらいますけど、美海さんの嫌いな食べ物ってなんですか?」


「カレーとか、唐揚げとか」


「ちなみにその料理のどんなところが嫌いなんですか?」


「それは……。美味しくないところ、かな」


「だったら私に任せてください。カレーは私の料理レパートリーの中でもかなり得意な部類に入ります。美味しいのを食べさせてあげますよ!」


 凛音は胸を張っていた。


 嫌だったけれど、別に食べたいものがあるわけでもないのに、嫌だ嫌だと連呼するのは本当に子供になってしまったみたいで嫌だった。だから私は黙って凛音の隣を歩く。


 オレンジ色の空を二羽の黒いカラスが飛んでいく。どうでもいい豆知識だけれど、カラスは一度つがいになると、相手を一生変えないらしい。


 私はつながれた手をじっと見下ろした。


「どうかしました? 美海さん」


「なんでもない。……カレー、楽しみにしてる」


 私が微笑むと、凛音は綺麗な横顔で笑った。


「楽しみにしててください。私のパートナーになったこと、絶対に後悔させませんから。花嫁修業の成果をみせてあげます」


「花嫁修業?」


「はい。いつか適合者がみつかった時のために、ずーっと色々なことを練習してたんです。料理とか裁縫とかお掃除とか家事全般ですね」


 カラスの鳴き声が聞こえてきた。私は寂寥感を覚えながら問いかける

 

「凛音は、ずっと自分じゃない誰かのために生きようとしてきたんだよね?」


「そうですね。夢とかもてませんでしたから。ただ生きることに精一杯で」


 凛音は切なげな笑顔を浮かべていた。私はつないだ手を、指先を絡め合わせるつなぎ方に変えて、凛音につげた。


「これからは、自分のことだけ頑張ればいいよ。凛音はもう自由。だから、私にもカレーの作り方とか教えてくれると嬉しいかな。私が凛音に料理を作ってあげたいんだ」


 私には料理の経験なんてない。料理に限った話ではなくて、できることなんてほとんどない。だからこそ、凛音のためにできることを少しずつ増やしていきたい。凛音がいつか見つけるであろう夢。それを追いかける時間は多ければ多いほどいい。


 凛音は目をまん丸にして私をみつめていた。


「……そんなに変だったかな? 私らしくない?」


「いえ。私は美海さんにそばに居てもらう側なのに、本当にいいのかなと」


「それは私も同じだよ。私って精神が弱いからさ、一人だとすぐに壊れかけちゃうんだよね。凛音がいないと、いつか死んでたと思う」


「そんなのだめです!」


 凛音は縋りつくように私に抱き着いてきた。私は笑って凛音の頭を撫でる。


「死なないよ。ただ勘違いしないで欲しいだけなんだ。凛音は私に助けられてばかりいると思ってるのかもしれない。でも実際には助けられてるのは、私の方なんだよ? 本当に、ありがとう。凛音」


 凛音は顔を赤くして、照れくさそうに私から目をそむけた。


「……そんなこと言われたら、もっと好きになっちゃうじゃないですか」


 私たちは二人で手を繋いで、比翼の鳥のように街を歩いていく。


 私もいつか、心から凛音を好きになれる日がくるのだろうか。今はまだ分からない気持ちだけれど、いつか好きになれたらいいのに。そんな思いを胸に抱きながら、春になれば桜が咲き誇る並木道を下った。

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