第4話 同情

 その言葉を聞いた私は、どうしてか、凛音にキスをされたことを思い出していた。誰も私を求めてくれないこの世界で、唯一私を求めてくれた凛音。


 その凛音が、死にかけている。


 胸がばくばくと音を立てた。私は利己的だ。だからこそ、恐れている。唯一私を求めてくれる凛音がこの世からいなくなることを。


 でも今さら私が凛音の元に向かうなんてあまりに虫が良すぎる。凛音は私をみて、どう思うだろう? きっと気持ち悪いと思うはずだ。


 偽善者だと。例え表情や声色をどれほど取り繕ったとしても。仮に本心から感謝していたとしても、私の心は間違いなく凛音の仕草や目線、あらゆる感情表現の底に、非難の意図を見出してしまうだろう。


 でもそうだとしても、やっぱり凛音がこの世からいなくなることを、私は許容できそうになかった。腐り切った心だけれど、最後に私の行動をひと押ししたのは、微かに残った善意だったのだ。


 凛音の両親はまだ扉の前にいるようで「お願いです。お願いです」と泣き崩れていた。


 私はパジャマから白いトップスと紺色のスキニーに着替える。そして履きなれたスニーカーを履く。恐る恐る、玄関の扉を開いた。


 私は居心地の悪さを感じながら、こう告げる。


「凛音さんの病室に連れて行ってください」


 凛音の両親は、そんな私の手を握って何度も「ありがとう」と感謝をしていた。


 私は凛音の両親の車に乗り込んだ。気まずい密室の中で、私は流れていく景色をみつめる。


「美海さんは、お仕事とかされてないの?」


 突然、凛音のお母さんが私に話しかけてくる。あれだけ醜態を晒していて、もう今さら誤魔化せる気も誤魔化す気もなかった。私は正直に答える。


「今は何もしてないです」


 小声で答えると、凛音の両親は「よかった」と口々に言い合っていた。なにがいいのかさっぱりわからない。私は肩を落として、小さくため息をついた。


 やがて大きな病院にたどり着いた。空は灰色だった。車から降りた私は、凛音の両親の後をついていく。凛音が無事に一生を終えるためには、私と一緒に暮らさなければならない。


 そのことを思い出した私は、今更ながら、もしかするととんでもないことをしてしまったのかもしれない。そう思い始めていた。凛音の命を救うためとはいえ、もしもずっと一緒にいることを強いられるのなら、仕事や結婚などの自由もなくなるのだ。


 凛音ならともかく、私なんかが結婚できるわけもないだろうけど。


 エントランスを抜けて、凛音の病室へと向かう。道中の白い空間は老若男女問わず、色々な患者さんがいた。そこにあの、どこかの国のお姫様みたいな凛音が混じることを考えると、あまりにアンバランスだなと思った。


 でもそのアンバランスさが、なおさら凛音をこの世界の主役に仕立てているような気がした。薄命の美少女。両親からも愛されて、きっと他の人からも沢山愛されているのだろう。


 それを救うのが、私みたいなどうしようもない人間だなんて、神様はひねくれている。


「美海さん。ここです」


 私は両親が開けた扉の前で立ち尽くしていた。医療機器に囲まれた凛音が、部屋の奥、ベッドの上で眠っていたのだ。


 凛音の両親に手を引かれて、辛うじて病室に入る。


 私があの日、逃げたせいで凛音はこんなことになってしまったのだ。


 罪悪感が、胸をきりきりと締め付けてくる。


「凛音。美海さんが来てくれたわよ」


 お母さんがつげると、凛音はゆっくりと目を開けた。顔色は悪いし、人工呼吸器が取り付けられていて、痛々しかった。


「……美海、さん」


 くぐもった声だった。凛音は私の顔を見ると、微笑んでいる。私はすぐに視線をそらした。なぜ笑顔を浮かべるのか、理解ができなかった。私は一度、凛音を見捨てたというのに。そのせいで、凛音はこんな風になってしまったというのに。


「……やっぱり、嫌ですか? 私のパートナーになるのは」


 だけどその言葉ですぐに気付く。凛音は私に命運を握られているのだ。だから、微笑んでいるのだろう。


「嫌なら、いいですよ。一緒に暮らさなくて。そもそも私の病気、正式名称じゃないですけど、生贄病、って呼ばれてるんです」

 

 その不気味な響きの言葉を、気付けば私は復唱していた。


「……生贄病」


 凛音はベッド脇に立った私の手を、握りしめてくる。指先からは、震えが伝わってきた。


「はい。他人の人生を生贄にしないと、長生きできない病気。そもそも、ほとんどの人は『適合者』をみつけられないし、仮にみつけたとしても拒否される可能性が極めて高いんです。だって二人でずっと一緒にいないといけないから。仕事も、学校も、休みの日も、寝るときも、いつだっていつだって、手を繋げるくらいの距離で二人一緒にいないといけない。どれだけ喧嘩したとしても、離れられないんです」


 凛音は悲しげに眉をさげていた。


「一度パートナーになった後、離れるってことは、生贄病の患者を殺すのと同義ですから、法律的にも罪に問われてしまうみたいで。ネットとかで調べればすぐに分かりますよ。最初は仲の良かった男女の二人組でも、百組いれば百組全てが十年以内に関係を崩していますから。殺人の罪を背負ってでも別れるほどに」 


 適合者と生贄病の患者には、結婚以上に強い結びつきが求められる。そういうことらしい。私は呆然としていた。凛音は全ての組み合わせが最悪な結末を迎えるにもかかわらず、凄惨な未来を覚悟で、それでも『適合者』を求めていた。私に縋りつこうとしていた。


 どうしてそこまで、強く生きようと思えるのだろう? いや、お父さんとお母さんの反応をみれば一目瞭然か。凛音はみんなに願われているのだ。万一の細い幸せの糸をつかみ取って、人生の終わりを笑顔で終えることを。


 でもそんなもの、ゼロに等しい可能性だ。凛音は言った。百組中百組が十年以内に関係を壊してしまうのだと。ましてやほとんど初対面の私たちでは、凛音から逃げた私なんかが相手では、ますます壊れやすいに違いないのに。


 他人に命運を握られるなんて、私には耐えられそうにない。


「……凛音は、どう思ってるの? 本当に、生きたいって思ってるの? 今助かったとしても、将来、また私に見捨てられて、死んでしまうかもしれないんだよ?」


 それは紛れもない同情だった。


 だけどそんな同情も、凛音の明るい声でかき消された。


「私は少しでも長く生きられるのなら、それでいいんです。家族が、友達が、みんなが笑顔になってくれるのなら、それでいいんですよ。それに私だって、死にたくないですから」


 私はその真っ黒で美しい瞳をじっとみつめた。


 頭の中に、これまでの人生が蘇る。


 私は家族に目を向けてもらえなかった。学校でも荒んだ私は友達一人作れなかった。大学に入ってもそれは変わらず、ますます家族とは距離が離れていく毎日。大学では時々、話しかけてくれる人はいた。でも、私は全てに疑念を向けていたのだ。


 どうせ、心の底では憐れんでいるんだろう? と。


 私はやがて大学に足を運ばなくなった。キャンパスライフを楽しむ学生たちと、人とまともに関われない私。その劣等感や憎しみに耐えられなくて、自分の未来を考える余裕もなくて。そして、二年の終わりに退学した。


 みんな、レールを外れて落ちていく私をただただ見下ろしていた。


 かつて、私は誰にも救ってもらえなかった。誰も私を求めてくれなかった。そう、思っていた。でも今ならわかる。本当はみんなの助けを拒絶していたのは私なのだ。声をかけてくれる人もいた。なのに、私は全て無視して、悲観的な考えに染まって、みんなも自分も全てをないがしろにした。


 でも凛音は、違う。ずっと助けを求めていた。私みたいなどうしようもない人間に助けを求めて、人生を共にする覚悟を心に決めてまで、生きようとしているのだ。


 私は大きくため息をついた。病室の中の空気が冷たくなるのを感じた。凛音の両親は私が拒むと思っているようで「お願いしますお願いします」と繰り返してくる。だから、違うと示したくて、私はつげる。


「……分かった。一緒に暮らそう。凛音」


 私がそう告げると、凛音のお父さんとお母さんは泣いて喜んでいた。将来娘は不幸になるのに、それでも娘が生きてくれることは嬉しいみたいだった。私の両親ならどんな反応をするだろう、と考えそうになって、首を横に振る。


 比較は無意味だ。凛音の背負っているものは、あまりに大きい。


 うつむいていると、凛音が問いかけてくる。


「美海さんって一人暮らしですか? それとも、恋人とかいたりします?」


「……恋人なんているわけないでしょ」


 私はぼそりとつぶやいた。すると凛音は私の顔を覗き込んできた。


 顔色はかなり良くなっている。しかもさっきまではまともに動くことすらできないようだったのに、今ではもう起き上がっていた。「適合者」の話は本当みたいだ。


「恋人がいないなら、私、美海さんの家で過ごしたいです。だめですか?」


 お父さんもお母さんも愛娘のその言葉に、反論しなかった。私へできるだけ譲歩したいという気持ちがあるのだろう。二人からすれば、愛娘を人質に取られているようなものなのだから。


「分かった」


 私は頷いた。すると凛音は突然、人工呼吸器を外して、私に抱き着いてきた。


「ありがとうございます。美海さん」


 これもきっと、私に見捨てられない為なのだろう。信用なんてないに違いない。


 凛音は、余りにも大きなものを背負っている。


 みんなに認められているということは、それだけプレッシャーがあるということだ。もしも自分が死ねばみんなが悲しむ。だからみんなのために、好きでもない相手と生きなければならない。


 それはきっと、とても辛いことなのだろうと思う。


 だからだろうか。気付けば、私は凛音を抱きしめ返していた。


「……凛音が生きたいと思うように、頑張るから」


 私らしくない発言が不意に口から飛び出して驚く。嫉妬だらけで、人を羨むばかりで、そんな私が誰かのために頑張るなんて、本当に可能なのだろうか?


 凛音もぽかんとした表情をしていた。でも突然、両親からの死角になる角度で、笑顔で私の唇にキスを落とした。


「ありがとうございます。美海さん。私も凛音さんが私のそばに居たいと思えるように、頑張りますね」

 

 その美しい容姿はもちろんだけれど、凛音は人として美しい。私なんかよりもずっと。


 だからこそ思う。


 私は、本当に凛音には相応しくない人間だな、と。

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