第3話 トラウマ

「美海さん。ここです!」


 夜の住宅街で凛音が指さしたのは、ごくごく一般的な一軒家だった。貧相というわけではないが、豪勢というわけでもない。


 凛音は門扉を開いて、家の敷地内へと入っていく。決意は固めたはずだけれど、いざとなると足がすくむ。でもここまで来たからには、もう進むしかないのだ。


 私は小さくため息をついた。穏やかでない胸の鼓動を感じながら、門扉を抜ける。そして凛音に手を引かれるままに、玄関の扉をくぐり家の中に入った。


 玄関の靴入れの上には観葉植物が置かれていて、海の絵が壁にかけられていた。正面をみると、フローリングが伸びていてその左右に扉がある。手前には階段がみえた。


「美海さん。あがってください」


 凛音の声に逆らわず、私は足元をみつめながら、パンプスを脱いだ。フローリングに足をあげると、凛音はまた私の手を握った。そのまま凛音に引っ張られていく。


「明るいところでみると、美海さん、なおさら綺麗ですね」


「そんなことないよ」


 女にモテそうな中性的な顔だといわれることはあったけれど、自分ではそうは思わない。化粧をすれば映えそうだと思う程度。面倒だしお金もかかるから最近はしてないけど。 


 それに比べて、凛音は明るい所だとなおさら美しさが際立っている。もはや嫉妬とか湧かないレベルだ。でも容姿でなく、その容姿が導くだろう結果には、嫉妬はする。もっとも余命一年、なんてひどい制限をつけてまで成り代わりたいとは思わない。


 凛音は大層私の見た目を気に入ったようで、真剣な声でつげてくる。


「私、美海さんとなら一生を共にしてもいいですよ」


 私はその冗談に、肩をすくめながら言葉を返した。


「まぁ、凛音相手なら一生を共にしたいって思う人は星の数ほどいるんだろうね」


 凛音は「そんなことないです」と視界の端で微笑んで、歩いていく。


 全てを失った今の私を認めてくれる人は少ない。でも凛音ならもしも私と同じ境遇だとしても、求める人は多いだろう。


 凛音は扉を開いた。私も引っ張られるままに、部屋に入っていく。するとそこには女性がいた。母親だろうか? いやいや、美人局の主犯という可能性もまだ残っている。でも一応、私は軽くお辞儀をした。


 だけどそんな私を無視して、凛音のお母さんらしき人は凛音を抱きしめた。


 私にはあまりにもまぶしい光景だった。


「凛音。どこ行ってたの? 心配したのよ? お父さんは今もあなたのことを探して……」


 でも凛音はその慟哭にも近い言葉を遮って、明るい声で告げた。


「お母さん! こちらの美海さんが、私の適合者みたいなの!」


「えっ……?」


「薬飲まなかったのに、美海さんが近づいてくれただけで、発作、治まったんだよ!」


 凛音のお母さんは、驚きに目を見開いていた。すぐに私の前まで歩いてくる。


「あなたが、凛音の……?」


「……そう、みたいです」


 私は肩をすくめながら、目をそらす。視線の先には幼い凛音の写真があった。遊園地で撮った写真みたいだ。私はその遊園地に見覚えがあった。昔、家族と行ったことがある。その中で、凛音はとても楽しそうに笑っていた。


 生活感あふれるこの空間は、とても美人局に関係あるとは思えなかった。


 だとするのなら、凛音の話は全て真実だったのだろうか。


 その脇の電源の入っていないテレビには、私たち三人の姿が黒く反射している。テレビの中の凛音のお母さんは、突然、私を抱きしめた。


 私の体を温もりが包む。


「良かった。あなたが、凛音の適合者なのね。ありがとう。本当に、ありがとう……」


 生きてるだけで褒められことに違和感を感じながら抱きしめられていると、玄関の扉が開いて誰かが歩いてくる音がした。


「凛音。帰ってるのか? 凛音!」


 低く威厳のある声。凛音のお父さんだろう。凛音のお母さんは私を抱擁するのをやめて、リビングに入ってきたお父さんを抱きしめた。


「お父さん。適合者がみつかったのよ!」


「本当か!?」


 凛音はうんうんと頷いていた。凛音のお父さんは凛音を熱く抱擁していた。凛音は少し迷惑そうにしているけれど、嬉しそうだった。


 そんな光景をみた私は、胸がきしむのを感じていた。私はお母さんやお父さんに、こんな風に温かく迎えてもらったことはあっただろうか?


 二人は出来のいい兄に首ったけ。褒められることもなく、常に厳しい目でみられていた。部活でも褒めてもらうことはなく、賢い兄が名門大学の医学部に合格したときは大盛り上がりなのに、私がそれなりの大学に合格したときは無反応だった。


 そして、私がレールを外れてからはもうすっかり興味を示さなくなった。社会からも、身内からも、私は見放されていたのだ。


 だから、こういう光景をみせつけられると、頭が痛くなってくる。


 ぼかさずに言うと、嫉妬で頭がおかしくなりそうだった。


 今すぐにでもこの空間から逃げ出したかった。でもリビングの入り口は温かな家族団欒で閉め切られてしまっている。私はそれに背を向けて、湧き上がってくる不平等への怒りを抑え込んでいた。

 

 すると凛音が声をかけてくる。


「美海さん。本当にありがとう」


 私の手をぎゅっと握りしめてくるのだ。本当に、惨めで、惨めで仕方がなかった。それが同情でなく心からの感謝だということは分かっているのに、素直に受け取れない。


「美海さん、頼みます。この家で凛音と一緒に暮らしてもらえませんか?」


 心の整理もまだついていないのに、凛音のお父さんはそんなことを問いかけてくる。突拍子もないその言葉に、私は思わず背中を向けたまま聞き返す。


「なんでですか?」


「凛音の病気は「適合者」と常に一緒にいなければ、進行し続けてしまうんです。でも一緒にいれば、普通の人と同じように過ごせるし、今からでも人並みに長生きもできる。だから凛音と一緒に暮らしてもらいたいんです」


 一緒にって、見ず知らずの人と一つ屋根の下で暮らすというだけでも辛いのに、こんな、毎日、こんな家族団欒をみせつけられるなんて、私には耐えられそうにない。


 私は背を向けてうつむいたまま、ぼそりとつぶやいた。


「ごめんなさい。それは無理です」


「どうしてですか。お金も払います。どうか」


「お願いよ。凛音を助けて。お願いだから」


 凛音のお父さんも、お母さんも本当に凛音を大切に思っているのだろう。当たり前のことだ。普通の家庭では、きっと。


 だからこそ、ますます嫌だと思ってしまう。醜い感情が胸の奥から盛り上がってきて、なにもかも全て切り捨ててしまいたいと思ってしまう。私は恵まれてないのに、どうして凛音はこんなにも両親に愛されているのだろう?


 私は無言で凛音が握ってくれた手を振り払った。そして入り口を塞いでいる凛音の両親を押しのけて、リビングを飛び出していく。凛音の両親が叫びながら私を追いかけてきていた。でも私はその場から逃げること以外、何も考えられなかった。


 誰もいない住宅街を走って走って、振り返ると遠くに凛音の姿がみえた。凛音は立ち尽くしていた。表情はみえないけれど、どうせ私を軽蔑しているに違いない。私は振り返るのをやめて、夜の街を走った。


 アスファルトを駆け抜けて、ようやくアパートにたどり着く。二階の一番奥の扉を開けて入ると、そこは荒れ放題だった。そこら中にペットボトルが散らばっている。私は畳に腰を下ろして、うなだれた。


 それから私は引きこもる毎日を繰り返した。朝になれば毎日、凛音の両親の声が聞こえてきた。娘のために、ここまで必死になれるなんて。本当に羨ましい。


「私たちの家で暮らさなくていいです。あなたのアパートでいいから、どうか、凛音を……」


 二人は本気で泣いているみたいだった。それでも私が無視を決め込めたのは、人の死というものに実感が湧かなかったからなのだと思う。若い凛音はとても死と隣り合わせにはみえなかった。


 でも一週間たったある日、私は認識を変えることになる。またいつものようにアパートにやって来た凛音の両親が、扉の前で涙声でこんなことを口にしたのだ。


「凛音、入院しました。もう、一か月もつか、分からないみたいです」

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