第3話 (本編のネタバレを含んでいます。本編を未読の方は、その点ご了承ください。)

 九月半ばを過ぎても、広川はミュゲ書房に姿を現さなかった。

 このまま東京に戻ってしまうのだろうか。もう原稿は、相葉の手に渡っただろうか。

 そんなことを考えながら棚を整理していると、カラン、とドアベルが鳴り、俺は作業の手を止めて入り口の方に体を向けた。入ってきたのは、スーツを着た見知らぬ青年。

 営業だろうか。

 世間はシルバーウィークの最中で、出版関係各社も休みのはずだが。

 青年が真っすぐに俺を見るので、俺もつい、彼を観察してしまう。

 身長は一七八センチくらい。細マッチョな体型で、スーツがよく似合う。精悍な面立ちだが、優し気な目元が印象的だ。

 俺はミュゲ書房以外のカフェや飲食店でバイトしていた経験もあり、だからおおよその客の職種は見当が付くのだが、この青年にいたっては、まったくわからなかった――いけない、挨拶するのを忘れていた。


「いらっしゃいませ」

「はじめまして」


 口を開いたのは、同時だった。

「あの、私、相葉と申しまして。いっせいしゃの」

 青年はカバンを床に置くと、慣れない仕草で内ポケットから名刺入れを取り出し、これまたぎこちない手つきで、名刺を差し出した。

「えっ! 想像と違」

 ああ、またやってしまった。俺はどうしてこう、心の内を声に出してしまうのだろう。


「よく言われます。ラグビーやってたようには見えないね、と」

 二階の自室で編集作業をしていた章さんを呼び、サンルームで名刺交換を済ませると、相葉ははにかんだ笑顔を見せた。

「ほんとに。ラグビー選手ってもっとガチムチの巨漢かなって。あら、ごめんなさい」

 みんなの前にコーヒーと焼きチーズケーキを並べ終わった菅沼さんは、しまった、という表情をした。

「いえ、いいんです。それが多くの人の持つイメージだと思います。でも実際は、ポジションによって適した体格は違って、比較的、小柄な選手もいるんです。自分は、学生時代はもう一〇キロくらいあったんですけど、引退したら筋肉が落ちて痩せました」

 それでも、相葉はラグビー選手としてはかなり細身だろう。そして何より、穏やかで落ち着いた雰囲気が、あのスポーツの激しさをまったく感じさせない。広川はきっと、こういうところも気に入ったのだ。

 菅沼さんが退室して静かにドアを閉めると、相葉は急にかしこまった表情になり、テーブルの向かいに並んで座る章さんと俺に、頭を下げた。

「本日はアポなしで突然お伺いし、大変失礼しました。直前まで迷った結果、こういう形に」

 恐縮する相葉に、章さんは微笑を浮かべた。

「気になさらないでください。お会いできてよかったです」

「こちらこそ、お目にかかれて光栄です。ミュゲ書房さんのことは、ずっと気になっていて。『リベンジ』を世に出した書店兼出版社はどんなところなんだろう、と。写真などで拝見してはいましたが、やはり実際に訪れてみると、素敵ですね。雰囲気があって」

 目を輝かせて語る相葉に、章さんはきいた。

「今日は出張ですよね?」

「いえ、プライベートです。正確に言うと半々かな。本来ならば編集長に相談、または広川さんとよく話し合うべきなのでしょうが、どちらも結論がわかりきっている気がして」

 あの原稿のことか。

「うちも、結論は同じです」

 章さんは真っすぐに相葉の目を見た。

「そうでしょうか。ミュゲ書房さんとは、直接、話してみた方がいいかなと」

 それだけのために、私費で東京から北海道まで来たのか。

 相葉が続ける。

「広川さんと蓼科さんの間に優劣は付けない、と宮本さんがおっしゃったと聞きました。でも私は、そうは思いません。やはり作家としての力は、広川さんが圧倒的に上です。今回の原稿もすごかった。蓼科さんの原稿は拝読していませんが、とても広川さんレベルのものを書いているとは思えません。違いますか?」

 章さんは黙ったままだ。

「勘違いしないでいただきたいのは、蓼科さんや池田さんを悪く言いたいわけではない、ということです。でもあれほどの才能が、宮本さんを担当編集にと希望している。断る理由、ありますか? 蓼科さんの担当を池田さんに変更する、あるいは蓼科さんの刊行時期を後ろにずらす、など、いくつか、広川さんの納得する方法はあるはずです」

 章さんはコーヒーを一口飲むと、小さくため息をつき、カップをソーサーに置いた。

「それはできません。だから広川さんの原稿は、うちからは出せません。現時点では、相葉さんが担当するのが筋です」

「でも」

「自信がありませんか?」

「――はい」

 相葉は、ためらいがちに続けた。

「広川さんとは、短編を作ってみようという話だったんです。それなら新人でもなんとかなりますから。たしかに難航はしていましたが、いきなり長編の原稿を持ち込んでくるとは。喜ぶべきことだとわかってはいますが、今の私では力不足です。広川さんがせっかく信頼して原稿を託してくれたのに、期待を裏切ることになりそうで、申し訳なくて」

「相葉さんの編集長なら、どう判断すると思いますか?」

「自分でやれと言うと思います」

 章さんは、うなずいた。

「新人にもどんどんやらせてみる感じですもんね。でも、心配無用ですよ。広川さんは、きちんとプロの仕事をします。相葉さんは広川さんが気持ちよく改稿できるよう、適宜フォローしさえすればいい。実際ほとんど助けは必要としないけれど。たまに読者を置き去りにする癖はあるので、そこは注意が必要です。あとは、事務的なミスを絶対にしないこと。これらだけしっかりやれれば、基本的には大丈夫です。それに――」

 言ってもいいのかな、と章さんは苦笑いをした。

「広川さんは、ああ見えて、かなり計算高いです。外見に騙されちゃいけない。もちろん、相葉さんのことを信頼しているのは間違いありませんが、でも、それだけじゃない。相葉さんの編集長、かなりの敏腕でしょう? それこそ、壱星社の一般文芸の売り上げの数割を叩き出すような。広川さんは、そこまでわかってやっています。『相葉さんが未熟でも、あの編集長が後ろにいれば絶対売ってくれる』と。編集長も広川蒼汰の原稿をないがしろにはしないでしょう。必ずベストセラーにするつもりで、編集部をあげて相葉さんをバックアップしますよ。僕が言うのもおかしいかも知れませんが、大丈夫、安心して取り組んでください。相葉さんが大きな実績を作るチャンスです」

「でも、それじゃ宮本さんは」

「こちらのことは、気にせずに。僕が今すべきことは、蓼科萌とヒット作を出すことなので」

「それは、自分がデビューさせた作家だからですか?」

「ええ。それに何より、彼女の作品を必要とする読者がいるからです。だったら編集者として、読者に届けるのが使命だ」

「――わかりました。今日は、いろいろと教えてくださり、ありがとうございました」

「こちらこそ、わざわざお越しいただき、ありがとうございました。お話しできて本当によかったです。広川さんをよろしくお願いします。刊行時期はもしかして、重なるかもしれませんね。お互い、いい仕事をしましょう」

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