第14話 養護施設という場所の閉鎖性について 1
「それでは、私のほうから次の論点の提示をさせていただきたい」
米河氏が述べた。
「ほう、それは何か?」
「他の世界というか組織でもあり得る論点ではありますが、この養護施設、とりわけ昭和期の私がいた頃、その後も含めて、「閉鎖性」と、それに伴う悲喜劇が少なからず見られました。この手の場所の「閉鎖性」と、それに伴う支配・被支配関係について、私は論じたいと思っております。以下、その理由を述べます」
「では、述べられたい」
日清戦争前に生まれた森川氏の回答を受け、昭和戦後生まれの両親の子である米河氏が、自ら提出した論点について述べていく。
・・・ ・・・ ・・・・・・・
この論点は、どうしても個々の施設による、あるいはその時代による差異が少なからずありますので、完全に一般化でき得るものではないかもしれません。
少なくとも、よつ葉園という場所は、その傾向はいささか薄いほうであったかもしれない。しかしながら、だからと言ってよつ葉園は素晴らしい場所であったと論じ切るのは早計に過ぎます。いくら閉鎖的な傾向が薄く、社会に開かれた組織体であったとしても、その内部で起こっていたことには、その危険性も内包されていたことが言えるのではないですか。
まず、これは養護施設というくくりに限らず、一定、どのような形で人の組織体と言いますか、区切られた枠内においては、同じような形での傾向が出てくるものであることは、明らかにしておきたい。以前、在日朝鮮人の方の知合いがおりまして、その方とお話しておる中で、その方がおっしゃるにはこうです。
国家、人種といった大枠であれ、特定の職業、出身校、あるいは一企業といった枠であれ、まあそれこそ、日本国憲法のほうの下の平等で羅列されている枠組みは言うに及ばず、それをさらに細分化したものであれ、そうなれば一定の割合で、問題のある人物や事態は発生しうるものである。
となれば、養護施設よつ葉園という、岡山県内にある組織体の内部においてもまた、その傾向は形を変えるか否かにかかわらず、そのような傾向性が見てとれる事例がいくつも見られるのではないか。仮によつ葉園には見られなかったとしても、他の養護施設という組織体でくくられる場所では現に起きていたということもあるでしょう。うちは大丈夫だからオッケー! と手放しでは言えぬはずである。
一般論として、養護施設に限らず組織というものは、排他的になっていく要素を持っております。そこに住む人たちの間でしか通用しない者がなぜかまかり通るようになって、そこで序列のようなものができてしまう。
これはくすのき学園からよつ葉園に移籍してこられた山崎良三さんという元児童指導員の方のお言葉ですが、住込みの若い保母と入所児童の間においても、そこが支配と被支配のような関係が生まれる温床となっているという指摘もありました。あの方はよつ葉園を退職後、養護施設のそのような関係性を、ひところ問題を起こしたとある宗教の内部組織、それこそ「サティアン」のようなものだとさえ、おっしゃっていましたからね。
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