――祓い師【肆】


 地上と地下とを繋ぐ開口に張った結界はそのままだった。それとは別に建物の外には二重の結界。

 人間以外の存在は基本的に通ることはできない。この厳重な結界を破らない限りは――。

 晴明はのんびりと後ろをついて来る男を振り返る。

 騰蛇の炎を挟んでふたりの視線が絡み合う。

「…………」

「…………」

 揺れ動く漆黒の片眼と金色の双眼。先に視線を外したのは晴明だった。

 彼の力は妖の中でも上位に達している。であれば結界など破らずとも入り込むことは容易いだろう。

 だからどうやって来たかなど愚問でしかなく、晴明は何も問わずに呑み込むのだった。

 再び細い通路を歩いて廃虚の一階に出た。

 床の二枚の扉を閉じて結界を施す。

 餓鬼はもう出てこないと言ってもまだ調査が終わったわけではない。準備を整えて午後もう一度来る必要があった。

「――晴明!」

 血相を変えた貴人が駆け込んできて晴明の身体を上から下まで確認する。

「大丈夫なの? 怪我は?」

「私は何とも……。それより君の方が顔色が悪い。何かありましたか?」

 心配しただけにしては顔色が悪すぎる。しかし怪我をしている様子もない。

 もしかしたら地下の瘴気が上にまで影響を及ぼしたのではないかと不安になった。

「ああ……わたくしも何ともないわよ。あちこち探し回ったから疲れただけ。あなたたちが無事で本当に良かったわ!」

 貴人の笑顔の裏を探ろうとジッと見つめるが、いつもの調子の彼女に晴明は息を吐いた。

 外からしとしとと雨の音が聞こえてくる。いつから降っていたのか。端末で時間を確認すると既に正午を回って半刻(一時間)ほど経っていることに少し驚いた。

 ――午後に出直す予定が狂ってしまった。

「ところで、あなたはどちら様かしら?」

 貴人の声にそうだったと彼を振り返る。晴明は目を見張った。

 暗い地下では分からなかったが、一緒に上がって来た男の格好は昼と夜の狭間に溶ける藍色の空に燃えるようなもみじの葉が堂々と咲き誇っている雅な和服を纏っていた。

 その藍色の着物は金色こんじきの髪が良く映える。

 下も何か穿いているのか白地の細袴のような物がちらりと覗いている。

 所々着崩しているにもかかわらず品が良く見えるのは長身で滑らかな立ち姿に合っているからなのか。彼は自分の見せ方を良く分かっている。

 男はただ晴明だけを見つめ、優雅に佇んでいるばかりで貴人の質問には反応すら示さない。

「ちょっと、聞いてるの?」

 その視線を遮るように晴明の前に立つと、漸く金色の瞳が貴人に向けられた。

「何か?」

「とぼけないで頂戴。聞こえてたでしょ? ……晴明に何か用?」

 男の晴明を見る目が気に入らない貴人は棘のある口調で相手を問いただす。

「関係者以外立ち入りは許可されていないはずよ。此処には何をしに来たの? 何処から入ったのか知らないけど用が済んだのなら即刻立ち去りなさい!」

 貴人も明らかに男が人間でないことを見抜いている言い回しだ。

 男はクッと笑った。

「ふざけたことを言うな。用があって出向いた先にコレが立っていたのだ。前はこんな物はなかった。後から入ってきたのはそちらだろう」

 そのまま聞くと何を言っているのかと問いたくなるところだが、この施設が立つ以前にも男はここを訪れていて、後から立てたのだから自分に非はないと主張しているのだ。

 屁理屈云々より驚愕な発言が飛び出たものだ。施設が立ったのはもう何十年も前。見るからに若々しいこの男はそれ以前から存在していることを平然と明かしたことになる。

 彼の目的は分からないが、嫌な感じは全くしない。

 かといって警戒を解いて全てを信用することもできないので暫くは様子を見る他なさそうだ。

 尚も食って掛かろうとする貴人の肩に手を添えた晴明は緩く首を振って押し留める。

「看板を立てたところで目に入らなければ何の役にも立ちません」

 現に彼は地上から来たのではないと晴明は踏んでいる。

 表の立ち入りを禁止する看板どころかこの施設の存在すら本当に知らなかったのかもしれない。

「そんなことより仕事を片付けるのが先です。霊符が尽きたのでその補充と、一泊できる宿を探さなければなりません」

「日帰りできなくて残念だったな」

 傍で騰蛇が呟く。結局彼の言う通りになってしまったのだ、何も言い返せない。

「分かったわよ。……少し戻ったところに数軒あったはずだから適当に予約入れてくるわ。露天風呂付きの部屋、取るわよ」

 晴明の返事を待つことなく部屋から出て行く貴人を止める者はいない。

 異質な男への鬱憤を温泉で流すつもりなのだろう。それで晴れるのなら安いものだ。

 他の部屋を見回ってから外に出た晴明は揃えた二本の指を唇に添えて真言を唱えるとサッと大きく横に払った。

 どこか重く感じていた廃虚全体がふっと明るさを取り戻す。応急処置程度だが暫くは邪気を抑え込めるだろう。

 終始付かず離れずついて来た男は邪魔をしない距離感でそれを眺めているばかり。

 このままでは宿までついてきそうだと感じた晴明は漸く男に向かって口を開いた。

「これから雨も激しくなります。帰らなくていいんですか?」

「ああ……まだやり残したことがあってな。それにしても見事な技だ。晴明は祓い人か?」

 突然の名前呼びにしてはしっくり来るのは何故だろうか。嫌悪感も無くそれどころか“晴明”と呼ぶ彼の声に既視感すら覚えた。

「そんなところです。遅くなりましたが先程は助けて頂きありがとうございました」

「はっ。礼には及ばない。俺にとってもあやつらが邪魔だった、それだけのこと。……相も変わらず律儀だな」

 最後の言葉だけ声が小さく聞き取れずに首を傾げる。

「今何て……?」

「いや、こちらのことだ」

 男の静かな笑みに追及を控える。今の彼との距離はその程度だ。

 いよいよ雨足が強くなってきたところに貴人が戻ってきた。電波状況が悪く、少し坂を下った先で宿に電話で予約を入れていたのだろう。

 雨の中の足取りにしては軽いので良い宿が取れたのかもしれない。

「――ではまたな、晴明」

 男の声に振り向くと淡い黄葉色の何かがふわりと視界を覆った。

 それを咄嗟に掴んで見ると、皺も無く手触りの良い上質な羽織りだと分かった。

 晴明を頭からすっぽり隠して雨を凌いでくれている。

 ハッとして視線を巡らせるが男の姿は既に無く……。名前を聞きそびれたことに小さく息を吐いた。

「良い宿取れたわよ。……アイツは?」

 名乗らずに消えた男を貴人は最初から毛嫌いしていた。

 現に今も晴明が肩に掛けている羽織りに鼻先を近付けては苦い顔をしている。

「ちょっと晴明……この羽織りアイツのでしょっ! ケダモノ臭がするわ。早く脱ぎなさい!」

 それは一体どんなニオイなのか。晴明もスンと嗅いでみる。

「香の匂いですね……そうキツくもないですし、大丈夫です」

 ――寧ろどこか安心する匂いだ。

「そういう問題じゃないわよ! 晴明はアイツが――っ」

「何です? 貴人、とりあえず宿へ案内してください」

 寒さに眠りかけている騰蛇を撫でながら、やけにムキになる貴人を促す。

 車の助手席で終始機嫌の悪い貴人にナビをしてもらい、予約した宿に到着して早々、騰蛇は敷いた布団の中で蜷局を巻いて眠りに落ちた。

 温泉にでも浸かればイライラも収まるのではないかと貴人をそっちへ押しやって、晴明は窓際の椅子に腰かけて紙の束に筆ペンを走らせていく。追加の霊符だ。

 あそこでは何が起こるか分からない為、この段階から強めに霊力を注ぎ込んでおく必要があった。

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