――祓い師【参】


 山形県と秋田県を跨る山の麓――。

 息を吸う度に冷たい空気が喉を刺激する。

 都心と比べるまでもないが、今日はやたらと空気が冷たい。予報では昼過ぎに雨と出ていた。

 廃虚の前に傾いて立っている関係者以外立ち入り禁止の看板。その他に某大手企業や建築会社の看板、シートなどが所有物であることを主張するように建物を囲んでいた。

 幸い人の気配はない。

 晴明は人差し指と中指を揃えて立てると口の中で一言呟いて薄い膜のようなもので建物を包み込む。それは目に映らず普通の人間や小物程度では破れない結界。晴明の得意とする技であった。――念のため今回は二重に施しておく。

 なかなか存在感のある建物で、入口の扉も大きく重厚感がある。

 それを躊躇いなく引いて中へと足を踏み入れると、晴明の身体全体に蠢く気配があった。

「……騰蛇」

 晴明の呼び掛けに、身体にぐるりと巻き付いていた炎を纏う白い蛇が頭を前に突き出して左右に揺らし始める。それはまるでダウジングのようだ。

「ちょっと、ピリピリするな。嫌な気配だ」

 電気は通っておらず薄暗く床は軋み部屋全体が荒れている。家具も全て運び出されているためガランとしているが、何か圧迫するような重い空気を騰蛇は感じ取ったのだ。

 それは晴明も肌で感じることができるが、式鬼神である騰蛇と貴人の方が敏感に察知することができる。

「わたくしは上を見て来るわね。念のため」

 貴人が二階へ続く階段を見つけると振り向かずに上がっていく。

 念のためと言ったのは上階よりも下の方が嫌な気を強く感じたからだろう。

 騰蛇も下ばかりに注意を払っている。ほぼ確定だ。

「地下に続く階段を探しましょう」

 彼にそう告げてから晴明は何もない空間を切るように右手を横に振り払った。一階に薄く漂う不浄の霊気を取り除いたのだ。

 この一階程度ならこの一振りで浄化できる。印を結び真言を唱えれば一城くらいは祓えるがかなり体力を消耗するのであまりやりたくはない。

 一人と一匹で手分けをすれば簡単に探し出せるはずだが、身体に巻き付いた白蛇は何故か晴明から離れようとしない。

「騰蛇……もしかして私で暖を取ってます?」

「……」

 返事はないがその細長い身体がピクリと震えたのが伝わってきて溜息が零れた。

 普段もこの状態で仕事をすることが多いが、調べ物をする際は勝手にしゅるしゅると這い回るのに今日に限ってこうも頑なに離れないのはおかしい。

 もしかしてと問うたことがまさか当たっていようとは……。

「雨が降る前に地下を探し出して様子を見ておきたいのですが……困りましたね」

 足手纏いになることを嫌う騰蛇は晴明の落胆したような声色に慌てだした。

 仕切りに身体の上を這いずりどうしたものかと右往左往している。

 慣れているとはいえこのくすぐるような感覚は勝手に身体が反応してしまう。

「っ、……ここまで言っても離れないのは、何かわけがあるのですか?」

 これまでも寒い中で仕事をしたことはもちろんある。今日のこの急激な気温変化に身体がついていかないということなのだろう。

「……オレには晴明を守る使命がある」

 嘘ではないだろうが、今ばかりは取ってつけたような言い訳に聞こえてならない。

 本当に暖を取るためなのか真意は分からないが押し問答している時間が惜しく、晴明は諦めて地下へと続く階段探しに集中した。騰蛇もぴったり張り付きながらも周囲に視線を巡らしている。

 幾つ目かの部屋に入った途端、突然身体がぎゅっと締め付けられた。原因は言わずもがなだ。

「晴明。あそこだ、気を付けろ」

 騰蛇の潜めた声に促され、彼が見つけた部屋の隅に足を向ける。

 しゃがんで床の土や埃をサッと手で掃うと四角い板が二枚嵌め込まれていた。形状からして扉になっているようだ。

 晴明は二本の指を立てて己に結界を張る。

「騰蛇は貴人を呼んできてください」

「駄目だ。あんたを一人にするわけにはいかない」

「結界を張ったので大丈夫です」

「そういう問題じゃない。兎に角駄目だ……何か……」

 ――良くない感じがする。

 その時、突き上げるような揺れがふたりを襲った。

 しゃがんだ床に両手を突いて身体を支える。思ったよりも長い揺れだ。

 十秒以上経った頃漸くそれは収まり静けさが戻ってから晴明は上体を起こして言う。

「震源はこの辺りでしょうか……」

「そうだな。間違いなくここだ」

 断言する騰蛇を見ると、彼の視線は真下に向けられていた。そして続ける。

「揺れたのはココだけだ、晴明。下で何かが動いたんだ!」

 動いたという表現に晴明は固まった。

「……何か分かりますか?」

「いや、そこまでは分からない。分かるのは一人じゃ危険だってことだ」

 たった今その危険性を身体で感じたばかりのため、晴明は大丈夫という言葉を呑み込んだ。例え一人だったとしても地下に下りて対処しただろうが、心配して離れようとしない騰蛇に何を言っても聞かないことは分かっていた。

 床の扉を持ち上げて開くと案の定地下へと続く細い階段が現れた。

 晴明は騰蛇を身体に巻き付けたまま小型の懐中電灯を手に下りていく。

 地下だからか、それともここにいるであろう何かのせいなのか、空気がひんやりとしていて潜れば潜るほど冷気が肌を刺す。

 階段を下り切った先は真っ暗で、懐中電灯と騰蛇の身体を纏う炎だけが頼りだ。

 建物の大きさからして何かの施設だったようだが、普通の施設がこんな地下を一体何に使っていたのか……。

「まるで異空間だな。何かが巣くっていてもおかしくないぞ」

 騰蛇の言葉には答えなかったが、晴明も同じことを考えていた。

 依頼主からは以前の建物についての用途を詳しく聞いていたわけではない。聞く以前に依頼主もはっきりとは知らない様子だったからだ。

 大方安く出ていた物件を適当な内見だけで購入したのだろう。どうせ取り壊すことになるのだからと考えがずさんになったのだ。

 時折壁に触れて確認しながら狭い通路を道なりに進むと広い空間に出た。天井も高く懐中電灯の灯りだけでは奥行きも定まらない。

「変に入り組んでると思ったら、この部屋のせいか」

 騰蛇の言う通り、僅かに下りうねるような通路の作りはこの空間を確保するためだったのかもしれない。かなり深く潜らなければこの天井の高さはあり得ない。

 ふと、触れていた壁が脆くなるのを感じた晴明は指先を軽く擦り合わせる。

「土壁……」

「晴明注意しろ、何か来る!」

 緊張をはらんだ騰蛇の声。隠れた晴明の左目がキラリと光る。

 ここにいる何かを外に出すわけにはいかない――。

 手早く数枚の霊符を取り出し息を吹きかけるように真言を唱えると出て来た通路に向けて全て放つ。

「晴明! 奴等を閉じ込めるのはいいが、ここで戦うつもりか!?」

 せめて貴人が来るまで待つべきだと騰蛇は訴えるが、開口に張った結界を背に立つ晴明の顔には迷いがなく騰蛇は愕然とした。

「相手が何体いるのかも分からないのに……無鉄砲にも程がある!」

 しかし主の決定には従うしかないため咎めながらも身体の炎を一層滾らせ臨戦態勢を取った。

 敵が複数いることは気配で分かっている。その霊力も疎らで非常に不安定だ。

 そして視界に飛び込んできた黒い影にふたりは目を見張った。

「凄い数だぞ!」

 騰蛇は細い身を晴明の肩から乗り出して炎を撒き散らし牽制した。意志を持って放たれた炎は熱く、狙った獲物を焼き尽くすことができる。

 これによって見える範囲が広がった。

 突然の炎の攻撃に跳び上がって後退るその群れは、一見人間のように見えるが服は一切纏わず裸体で、ただれた肌は黒くくすみ、頬や目だけでなく身体全体がボコボコと窪み痩せ細っていて髪もほとんど抜け落ちている。

 口が閉まらないのかだらしなく舌を垂らしていたり、眼球が片方取れてしまっていたりと様々だ。もっと酷いモノは飢餓が限界に達し腹だけがぷっくりと突き出ている。

 晴明は上着のポケットを探り、懐中電灯から小型のナイフに持ち替える。

「こんなところに餓鬼、ですか……」

 餓鬼は餓鬼道、つまり地獄により近い世界にいるはずのモノだ。それが人間道にこんなに沢山現れるのは異常事態すぎる。

 手にしたナイフを揃えた二本の指でサッと撫でつけ、向こう見ずに飛び掛かって来る餓鬼を切りつける。

 霊力を注いだナイフはそれなりに効果があり、餓鬼程度の相手ならば簡単に退かせることが出来る。ただ数が多いのが厄介だが……。

 少しでも刃が届けば浄化作用により一時的に動きを封じることができる。

 正面に来た敵を一振りで撃退し、次いで横から来た敵を振り向きざまにナイフを手の中で返し真っ直ぐ薄い胸に突き立てた。

 ギャア! と耳障りな悲鳴を間近で聞いた晴明は堪らず眉を寄せた。

 一歩踏み込んで体重を掛けた分かなり深くまでナイフが刺さっている。

 それを一気に引き抜こうと力を込めた晴明の手を最後の悪あがきと餓鬼が掴んだことで一瞬遅れを取った。

 複数の餓鬼が一斉に飛び掛かって来る――。

「何やってるんだ!」

 騰蛇は晴明に憤慨するなり身体から完全に離れると彼の周囲を囲むように自分の全身で円を描き纏う炎を強く燃え上がらせた。

 壁となって阻む熱に餓鬼たちの悲鳴が空気を揺らす。

 炎の輪の中に血の付いたナイフを手に一人佇む晴明。そんな彼を炎の向こう側で餓鬼たちが行ったり来たりしながら睨みを利かせている。

 同胞の悲痛な悲鳴と炎に焼かれた骸を目の当たりにし、怒っているのか恐怖しているのか……恐らく両方だろう、足踏みしては攻撃の機会を窺っているようだ。

「長くは持たないぞ……一旦戻って対策を練った方がいいんじゃないか?」

 騰蛇の言葉を聞きながらも餓鬼に注目していた晴明は違うことを考えていた。

 見た目は知っている姿と相違ないが、餓鬼たちの行動は明らかに奴等らしくない。というのも、我が先行する性質で仲間意識など持ち合わせていないはずなのだ。

 にもかかわらず、やられた仲間を目にして苛立っているように見えるのはどういうわけか……。

「騰蛇。ここは大丈夫なので周囲を探ってください」

「はあ? 大丈夫なわけ……まさかっ、さっきも自分に掛けた結界があるからってわざと手を抜いたのかっ?」

 そうでなければ、主がこうも簡単に餓鬼程度の低級に遅れを取るはずがない。

「あんたは自分の力を過信し過ぎだ!」

 結界だって何かの拍子に緩んだり破れることもある。必ずしも良い働きをしてくれるわけではないのだ。

 結界は万が一のためであって、最初から当てにするのはどうなのかと、騰蛇は常に不満を抱いていた。

 自分に無頓着ならまだ可愛い方だが、晴明の場合は自己犠牲が過ぎる面がある。

「小言なら後で。兎に角今は急いでください」

 後でと言いながらも結局煙に巻かれてしまうのが常だ。

 今回こそ言い逃れできないように身体に巻き付いて耳元で捲し立ててやると心に決めた騰蛇は暗闇の奥へと音も立てずにスルスルと突っ込んでいった。

 心配性の従者が漸く動き始めると晴明を守っていた炎の壁も当然ながら解かれる。それを待ってましたとばかりに再び餓鬼たちも動き出す。

 晴明は霊符とナイフで応戦しながら周囲の気配を探っていた。

 ここは人間界。その下の最下層に近い場所にいるはずの餓鬼がこれだけ多く上がって来たということは通ってきた道、または原因となる何かがあるはずだ。

 壁だけでなく足下もごつごつとした硬い土に覆われている。時折突き出た岩肌に足を取られそうになる。――思い描くのは洞窟のような空間。

 一体此処は何なのか……疑問は増える一方だった。

 暗闇の奥から僅かに揺れる炎が晴明を呼ぶ。

「ちょっとこっちに来てくれ! 何かあるかもしれない」

 その声に足を向ける晴明だが、まだ数体の餓鬼が行く手を阻んでいる。霊符も残り僅かだ。

 暗がりに目が慣れて来た晴明は慌てることなく体勢を整え、優れた身体能力とナイフ一つで餓鬼たちを蹴散らし道を切り開いていく。

 騰蛇の背後に立つと、何もない場所を仕切りに見回す彼に眉を顰める。何かあるかもしれないと言った理由が何となく分かった。

「確かに不穏な気配がしますが、何もないようです……今は」

 晴明は何かを確かめるようにしゃがみ込んで片手を地面につける。

 案の定、ゾワリと悪寒めいた何かが掌を伝って流れ込んできた。それを断ち切るように手を振って拳を握る。

「……“何かあった”が正しいようですね」

 それは物理的な物なのか、それともそれ以外の何かなのかまでは分からない。

「おい――晴明後ろ!」

 騰蛇の声と同時に背後に迫る気配に気付いて振り返る。

 残り少ない霊符を指に挟み放とうとした瞬間、餓鬼たちの潰れたような嗄れ声が聞こえたかと思うと一瞬で遠ざかって行った。

 何かの力によって弾き飛ばされたのだと分かる。晴明の霊符はまだ手の中だ。

 上に残してきた貴人が駆け付けて来たのかと一瞬思ったが、気配が違う。

 餓鬼を退けた時ほどの威圧感はもう感じられないが、餓鬼とは圧倒的に異なる得体の知れない何かが歩み寄ってきている。晴明は霊符を手に残したまま闇の中を見据えた。

「まったく、こんな所にまで湧いて出おって……」

 少し古風な喋り方だが声は若い男のものだ。気怠そうに響くその声は妙に耳心地が良い。

 そして暗闇の中で二つの金色こんじきの瞳が晴明を見た。星のように煌めくその瞳は強く魅惑的で、晴明を映したほんの一瞬ゆらりと揺らいだ。

 自然な足運びで隣に立った男は髪の色まで瞳と同じ金色で、それは腰の下まで長く続いていて肩甲骨の辺りで緩く一つに括られていた。

「逃げ足だけは速い……」

 男はそう独り言ちると何かを確かめるようにその場に屈んだ。

 僅かに肩に掛かった柔らかそうな髪が男の動きに合わせてはらりと落ちる。

 金色の瞳が手に取った何かをじっと見つめている。

 男の方が身長が高く、晴明にはその手元を見ることができない。

「それは?」

「ただのゴミだ」

 晴明の何気ない質問をあっさりした答えで返した男は本当にゴミを捨てるように手の中の物を放り投げた。

 ゴミだと言うわりには熱心に見ていたことが気になったが、もう興味を失ったように後ろ手に手を組んで遠くを見ている彼に晴明も意識を違う方へ向けた。

 まだ数体残っていたはずの餓鬼の気配がいつの間にか消えている。

「奴等のことは気にするな」

 こっちの警戒心を察したのか男がそう促してくる。そして晴明が疑問を口にする前に理由を述べた。

「もう此処にはいない。戻って来ることもないだろう」

「……やっぱり君が?」

 この質問には言葉で返ってくることはなかったが、男が口元に浮かべた笑みで答えは容易に知れた。

 見た目以上に纏う空気や気配からただの人間でないことは分かっている。

 もし敵対する存在だったとしたらさっきの餓鬼たち諸共弾き飛ばされていただろう。しかし晴明たちはピンピンしている。

 騰蛇も身体の炎をメラメラと燃やしてはいるが彼に歯を剥く様子はない。

「君は何ですか? 何故ここへ?」

 すると、男は楽し気に笑い声を上げた。

「はっはっは。何ですか、ときたか。そなたのことだ、もう気付いているだろう」

「……妖ですか」

 否定も肯定もしない。

 掴みどころのない自由気ままな言動は妖の性質そのものだ。

 二つ目の質問にも答えるつもりはないのか「此処から出ようか」と男は人差し指を上に向けた。

 再び騰蛇が晴明の身体に巻き付いて来る。随分大人しい。

「疲れましたか?」

 燃える身体をひと撫ですると、少し力が抜けたように締め付けがゆるんだ。

 この時、横目で見ていた男の瞳が鋭く細められたことを晴明は知る由もない。



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