前と後

かのん

さよなら、わたし

隠し事なんてひとつも無いような青空が広がる、土曜の昼下がり。私はリビングのソファに横たわり、スマホでSNSを眺めていた。『夢だった本を出版。ベストセラーになりました!』『新しい挑戦の場をくれた、友達に感謝!』と、同年代である五十前後の皆が、第二の人生を謳歌する投稿があふれている。

「ふん。私には友達もないし、夢もないわよ」

独り毒づき、スマホを放り投げた。秋の優しい日差しが、ささくれだった心を溶かす。

(本当に、ないんだっけ――?)

ゆるんだ心の隙間に、するりと問いが入り込む。

(ない、ない。仕事と育児に消費し尽くされた人生に、そんなもの今更……)

自問自答しながら、初めて転職を決意した一昨年の出来事を思い出していた。


当時、私は一菱銀行で五十歳の「定年退職」を目前に、忙しくも暇でもない日々を過ごしていた。五十歳以上で銀行に残れるのは支店長や本部の次長などの出世頭だけで、あとは関連会社へ出向と決まっている。課長にすらなれず、当時「課長代理」だった私は、誰が見ても出向が近かった。

「担保に入れた駐車場が本当にあるか見に行って、写真を撮って帰るだけ。楽だよ」

ある日の飲み会で、不動産会社へ出向した同期の話が耳に入ってきた。「豚の担保もあって、耳のタグを確認しに、牧場を走り回ったよ」という話も、爆笑と共に聞こえてくる。

(あそこまで、落ちぶれたくないな……)

正直、ぞっとしてしまった。確かに私も、出世はしなかった。三度の育休のせいか、中途半端な学歴のせいかは知らない。でも、やっと子育てが一段落して、働けるようになったのだ。まだ自分に、未練があった。高い倍率を勝ち抜いて一菱銀行へ就職し、将来への期待に目を輝かせて入行した過去の私に、「あんたはまだ、何も成し遂げてないじゃないか」と、怒られる気がしたからだった。

だから、昨年、思い切って早期退職をして、ベンチャー企業へ転職した。しかし、風土も業種も違いすぎた。若者のノリについて行けず、結果も上げられず、くすぶって今に至る。


「どうして、こうなっちゃったんだろ」

有給をリビングで消化しながら、私は思わずつぶやいた。転職に失敗した。ただ、それだけのことだ。今までだって、たくさん間違えてきた。子育ても、夫婦関係も。ただ、期待しては、裏切られる―上昇と下降を際限なく繰り返す人生に、歳のせいか、いい加減、疲れてしまった。

(こんな日、前にもあったな……)

瞼が重くなっていくのを感じ、ソファに体を沈ませる。思考を放棄して、少しだけと、目を閉じた。


気付くと私は、以前住んでいたマンションのリビングに立っていた。そこでは三十代前半の「私」が、夕飯を食べる子どもたちの横で、声を殺して泣いている。

「まま、どうしたの?」

心配そうに、三歳くらいの長女が尋ねる。カレーにがっつく長男は五歳、ベビーチェアに座る次女は一歳くらいだろう。

(ああ、あの日か―)

しまいこんでいた記憶の蓋が、静かに開く。それは信頼していた友人に騙されて、お金と夢と、希望を失った夜だった。

その頃、三十半ばで育休から復帰した私に与えられたのは「ママでも出来る」退屈で簡単な仕事だった。おまけに上司は、かつての同期。人事制度は年功序列だから、昇格して追いつくには月日を要した。ブログを書いたり資格を取ったりと、悔しさを埋めようともがくものの、いつも満たされないでいた。

そんな私を見ていた友人から「あなたをベストセラー作家にしてあげる」と、出版コンサルの提案をうけた。藁にもすがる思いで大金を支払ったが、内容はスカスカ。出版にすら至らなかった上に、音信普通となった。

数日後、共通の知人から「あの人は詐欺師で、私が被害者の一人だ」と教えられ、唖然とした。自分の情けなさに耐えきれず、夜に思い出しては、いつも泣いていたのだった。

「ママね、悪い人に騙されたの。本を書く人になりたいけど、なれなさそうなんだよ……」

絞り出すような声で、「私」は説明する。すると長女は「そっか!」と言い、ぱっと笑顔になり、ベランダへ飛び出した。「私」は慌てて追いかけ、長女を抱き上げた。すると彼女は嬉しそうに、天に向かって、こう大声で叫ぶのだった。

「かみさま!ままが、本をかくひとになれますように!」

小さな手を叩いて目を閉じて、真剣に祈る。

(届くはずもないのに。「作家になりたい」なんて、小学生の頃から何百回も神様にお願いしてきた―)

つい、乾いた笑い声をあげた。

「え?あんた、誰?」

すると「私」に存在を気づかれたのだった。


「その顔、もしかして、未来の私?何歳?」

 子どもたちが部屋に戻り、動画を見始める。ベランダに残って彼らを眺める「私」に年齢を伝えると、ため息とともに、こう返された。

「今、どん底でさ。キャリアはぼろぼろで、家庭はめちゃめちゃ。五十歳だと、どう?」

最も聞かれたくない言葉に、返答に詰まる。この日から失うことが怖くて、しばらく何にも挑戦できなかった。やっとの思いで転職したけれど、また、失敗してしまったのだ。

「その感じ。あんまりうまくいってない?」

「うん。まあ、そうだね。ごめんね。詐欺にあってまで、夢を叶えようとしたのに」

落胆の色を隠さない「私」に、あの日々を思い出す。自分は不幸だと思い込んで、明日はもっと幸せになれると信じて、今日に無関心で生きてきた。祈る長女の小さい手や、熱心に動画を視る長男の眼差しや、ママを呼ぶ次女の泣き声―今の私にとって、どんなに願っても決して戻れない、宝物に囲まれた日々なのに。

きっと、未来への期待で「私」も今の私も、しんどくなっている。だから、伝えておこう。あの頃に誰も教えてくれなかった、最も知りたかった事実を。

「もう止めなよ、未来の私に期待するの。まずは、今の自分を幸せにしたほうが良いよ」

(しまった)

言ってから、後悔した。今にもベランダから飛び降りてしまいそうな、危うい夜だ。こんな生きるのが嫌になるような言葉、ふさわしくなかったかもしれない。

「あーあ。やっぱりそうか。ま、私だしね。そんなうまくいかないか」

そんな心配とは裏腹に、どこかふっきれた声。「私」はニヤリと笑い、こう続けた。

「よく生き延びたね。五十歳までこれただけで、充分すごいよ。だから、あんたこそ、もう昔の私は気にせず、好きなように生きな」

どこか諦めを通り過ぎた、明るい笑顔に救われる。霞んで見えるのは、私が泣いているせいか、消えゆくせいかは分からない。

「だって、何度しくじったって、私はあんたの、一番の味方だから」

そして、今の私が一番欲しかった言葉を、くれるのだった。

「はは。そうだね、これまで頑張ってきた私が、ついてるもんね。ありがと。今の会社は辞めて、もう一度、作家目指すよ。これからの波乱万丈で、小説のネタは充分あるし……」

「え、冗談でしょ。まだ何か起こるの!?」 

そりゃ、二十年経てばね。夫の風俗通い、親戚の宗教騒動、様々な事件が蘇る。でも、大丈夫。きっと今の「私」なら、つらい夜も乗り越えていける。そんな気がした―――


「あれ、もうこんな時間か」

目覚めると、日が傾きかけていた。最後に見せた「私」の慌てふためく姿を思い出し、笑いながら、会社へ辞意のメールを送った。

「さて。期待するな、って言ったものの……」

公募サイトで、新人賞を探す。いくつか見繕って、カレンダーに書き込んだ。昔の私のためじゃない。今の私が、そうしたいだけ。誰のためでもない、私だけの、第二の人生。

「たくさん失敗しても、良いからね」

前ばかり見ていた「私」と、後ろばかり見ていた私。でも、もう言い訳はしない。そんな決意を讃えるかのように、夕日は光を放ったまま、沈んでいった。

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