scene 14 あなたの前では子供のように
カトラは黙ったまま歩くベルのことを何度もうかがっていた。真っ直ぐ前を向かれてしまうと、こちらからは顎の先しか見えない。手の中に収まったブローチが冷たく突き刺さる。痛みに耐えかねて、カトラはそれをポケットにしまいこんだ。しかし、十月の終わりの夜風がそれよりさらに冷たく、鋭く、カトラの頬に突き刺さってくる。
負けたのはカポーニだった。出たのは“猛進”のペアだった。それで、カポーニが差し出したブローチを受け取って、それをカトラに押しつけて、ベルは一言「行こう」と言ったきり、酒場を出ても何もしゃべっていないのである。ただ前を向いて歩いている。こちらを見ようともしないで。
何度唾を飲んで、何度タイミングを計ったか分からない。夜でも賑わっている南地区の繁華街を抜けて、閑静な東地区に入ってから、カトラはようやく声を絞り出した。
「ベル。ごめんなさい、あたしの勝手で迷惑をかけて。あなたが怒るのは当然だわ」
「怒ってなんかない。元々こういう顔だ」
「顔を見て言ってるんじゃないわ。顔が見えないから言ってるのよ」
声音と歩調で分かる。いつもならもっと優しい、柔らかい声音をしているし、歩き方だってこちらに合わせてゆっくりにしてくれる。今は無愛想に吐き捨てるような言い方をしたし、カトラが早足にならなければ追いつけないくらいの歩調だ。それに、ベルはきっと顔だけで怒っていると勘違いされることも多いだろう。だから、本当に怒っているときは、顔を見せないのだ。怖がられることを怖がっている彼だから。怒っているところを見るのは初めてだが、それぐらい考えれば分かる。
ベルは急に歩調を緩め、やがて立ち止まった。斜め向こうを振り仰いだ顔が、ゆっくりとこちらを向く。彼は片膝をついた。目線が合ったのがずいぶん久しぶりのことのように思えて、しかもその目がひどく落ち込んでいるように見えて、カトラは胸が苦しくなった。
「悪い。君の言うとおりだ。苛立ってた」
「謝らないで。あたしが悪いんだもの。あたしが勝手にしたことで、あなたに危険な橋を渡らせたんだから。……本当にごめんなさい、ベル」
「うん。……うん」
珍しく、彼のほうが先にカトラの手を取った。相変わらず、温かい手。カトラは吸い寄せられるように、一歩、二歩と彼に近付いた。うつむくのを我慢しているのか、不安定な上目遣いになった彼の目を見る。割れそうになっている薄氷の瞳。
「これからはどうか、先に相談してほしい」
「ええ、そうするわ」
「俺も絶対に話を聞く」
「うん」
深く頷いた拍子に、額と額が触れ合った。
「俺も、謝らなきゃいけないことがある」
「何?」
「君を疑って――」
「疑って当然の状況だったわ。気にしないで。普通、もっと怒るところよ」
「いや、怒りなんてしないよ。君が幸せになれるなら、それが一番いい」
その言葉に妙な聞き覚えがあって、カトラの胸がみしりと軋んだ。そうだ、リカルドもそう言って、父様もそう言って、あたしの手を離した……。
「一番いいはずなんだけど、駄目だった」
「え?」
「それを謝らなきゃいけないんだよな」
と、ベルが目と鼻の先で苦笑する。
「俺、そう思い切れなかったんだ。君が別の人と一緒にいるのを見て、本当に悲しかった。そこに俺がいられないのは嫌だった。君が誰かとどこかで幸せになるんじゃなくて、俺が君を幸せにしたかったのに、って、そう思って……ごめん、俺はたぶん、君が思ってるよりずっと心が狭い」
カトラは力なく首を横に振った。頭より先に心が理解して、言葉より先に涙があふれ出てくる。
(そうよ、あたしは――)
――本当は反対されたかったのだ、仕事なんてしなくても、と。引き止められたかったのだ、家出なんてしないでくれ、と。自由なんていらなかったのだ、孤独になってまでそんなもの欲しくない。あとは好きにしてくれ、なんて放置されるのは嫌なのだ。傍にいてほしかったし、傍にいさせてほしかった。利用されようが使い潰されようが構わなかった。
ただ愛されていたかったのだ――こういうふうに。
もうあの愛は手に入らないのだ。手は離されてしまった。今目の前にある愛はその代わりにはならない。きっとベルは彼らよりずっと優しく愛してくれるだろうけれど、それがかえって悲しくある。同時に嬉しくもあるから、余計にややこしい。
堪らず、ベルの肩口に顔をうずめた。中途半端なところの服を掴んで、彼が絶対にどこかへ行ってしまわないようにしながら、ただただ泣いた。ベルは初め困惑していたようだったが、やがてそっとカトラを抱きしめた。
子供のように背中を撫でてもらって、ようやく言葉を思い出す。まだ落ち着いていない息の隙間から、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「せ、狭くなんて、ないわ。あたし、うれ、嬉しいもの、とっても……そんな、ふうに、思ってもらえたの、本当に、嬉しいわ」
もっと言いたいことがたくさんあったし、もっと正しい言い方があったはずなのに、これだけしか言えなかった。けれどベルには伝わったらしい。
「良かった」
ほう、と吐かれた温かな息が、首筋を撫でていった。
カトラは彼の首に頬をくっつけて、ゆっくりと深呼吸をした。珍しく煙草のにおいが混じっていたが、それでも変わりない、彼のにおいだ。枕よりもずっと柔らかくて温かい。冷たく凍えていた頬が温まっていく。彼の腕の中にいれば、十月なんて寒くもなんともない。
「ねぇ、ベル。あたし、あなたに話したいことがたくさんあるの」
「うん」
「他の誰かじゃ嫌なの。あなたじゃなきゃ駄目なのよ」
「うん」
「あなたに、聞いてほしいの」
「うん、聞かせてほしい」
微笑んでいるのが顔を見なくても分かった。
それから不意に、ベルのお腹が鳴ったものだから、二人は同時にふきだした。
「先に夕ご飯ね。何か作るわ」
「こんな時間に家を訪ねるのは無作法じゃないか?」
「無作法よ。あなた以外の人がやったらね」
笑い合いながら歩いていく。外灯から外灯へ。月がない今、明かりの途切れる辺りは真っ暗だが、何も怖くはなかった。いつかサーカスの帰りに、少女が怖がっていなかったのと同じように。
外灯の明かりがぼんやりと、楽しげな二人の背中を照らしていた。
fin.
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