scene 13 猛進
カトラが初めて酒場に入ったときとは大違いだった。一瞬だけこちらに集まった視線はあっという間に逸れていって、全体に声量が小さくなる。警戒するような視線がときどき送られてくるが、凝視する人間は、まして指を指して笑うような人間は、一人たりともいない。
「こちらです」
ディノが手で指し示すと、示されたほうにいた人間がそそくさといなくなって道が開いた。奥の扉の前に立っていた男は、さすがに退くわけにいかなかったようだが、ベルに対して怯えを隠しているのが明らかに見て取れた。
「ボスと約束していた者だけど」
「……一人、増えてるみてぇだが」
「たかが一人増えた程度で、ボスはご機嫌を損ねるのか?」
ベルが横から、というより、上から口を挟んだ。カトラからすればわざとらしいと見える高圧的な態度も、彼らにしてみれば違うらしい。男はひくりと頬を引きつらせて、すぐに扉を開けた。ディノまで道を開けてしまったものだから、結果、先導する人が誰もいなくなる。
しかしベルは躊躇なく中へ踏み入った。カトラはその背に隠れるようにして続く。
店の裏の廊下をしばらく進み、突き当たりの扉をノックする。
扉は内側から開いた。
「お前っ……」
頬にタトゥーを入れた男が、扉を開けた格好で固まった。
「軍警が何の用だ!」
「俺はただの付き添いだ。お前らに用があるのは彼女だよ」
そう言いながら、ベルはその男を押しのけて中に入り、カトラの背を軽く押した。押す、というより、添えて支えるような感じだった。そのおかげでカトラは、一度目とは比べものにならないほど落ち着き払って、会長の前に進み出ることができた。
やや暗い照明。毛足の長い赤色の絨毯。遠目にも豪奢と分かる調度品。すべてが招かれざる客をはねのけるための演出として、正しく機能している。
その部屋の中央に、エル・ドラード商会の会長が座していた。フェルナンド・カポーニ――すでに四十代に入っているらしいが、それにしては若々しく見える。彼はゆったりとした仕草で眼鏡を取った。デスクの上に両肘をつき、組み合わせた指の上に尖った顎を置くと、琥珀の目をきゅうと細めて微笑む。
「いい番犬を飼っているじゃないか、お嬢さん」
抑揚がほとんどないのに、妙に深く響く声だ。恐怖とは違う。ただ威圧される。彼に逆らってはいけないのだと本能が先に理解しようとする。その感覚は二度目の邂逅でも変わらなかった。
カトラは意識的に息を吸った。大丈夫、と言い聞かせる。嘘はついていないし、ディノ経由で空き巣の家を教えた。彼らが何を盗まれたかは知らないが、軍警より先に回収はできただろう。損はさせていないはずだ。
「約束どおり、空き巣の次の犯行現場を当てたわ。ブローチを渡してちょうだい」
「君は、軍警には言わない、と言っていなかったかね」
「ええ、
「なるほど、よろしい。では――」
と、カポーニは引き出しから紫のブローチを取り出して、
「約束どおり、これを君に渡そう。今から
「……えっ」
「当てたら
確かに、そうだ。渡すことは約束したが、いつ渡すかについては何も言わなかった。ずるい、という言葉が口の中いっぱいに広がって、しかし唇をぐっと引き結んで押さえ込んだ。それは言ってはいけない。ずるいのはお互い様だから。けれど――。
カポーニは心底から面白がるように薄く笑って言った。
「だが、せっかくだ、お嬢さん。君の蛮勇に免じて、一勝負応じてやろう」
「勝負?」
「ああ。私の賭け金はこのブローチだ。君が勝ったら、その瞬間にこれは君の物だ」
カトラは注意深く彼の目を見た。
「あたしは何を賭ければいいの?」
「このブローチと釣り合うものならば何でも。そうだな、仮に金で換算するとしたら、二百万ほどか」
「そんなに?」
「実際にはそこまでの価値はないが、何せ私が気に入った物だからな。二百万ほど積んでくれれば、かろうじて手放す気にもなれるというものだ」
主観の混じった価値判断など不公平だ。それに、気に入っているというその言葉だってどこまで本心か。カトラは唇を噛んだ。
(でも、そこをどうこう言うのは無理ね。言ったところで、向こうが「それなら勝負はしない」って言ったらおしまいだもの。……参ったわ……)
完全に相手のペースだ。
カポーニは見せつけるようにブローチをかざしながら、ふと視線を横にやった。
「君が支払えないなら、番犬、お前でも構わないがね」
「駄目よ! 巻き込むために来てもらったんじゃない――」
カトラが言葉を切ったのは、ベルが前に進み出たからだった。
「乗った」
「ベル!」
「軍警の内部情報でどうだ? 充分釣り合うだろう」
「駄目よそんなの――」
手で制されて再び口を閉じる。見上げたがベルの顔は見えなかった。
「賭けるのが俺なんだから、当然、勝負するのも俺だな」
「お好きに。勝負の内容は何がいい?」
「そっちがお望みなら殴り合いでも」
「ふふっ、勘弁してくれ。それでは賭けにならん」
と、カポーニはブローチを置いて、カードケースを手に取った。ヴォルパーのカードだ。
「こいつで穏便に決めようじゃないか」
「三対一は無理だ」
「分かっているとも。だから、やるのはヴォルパーじゃない」
ケースを開き、カードを四枚取り出す。
「同種のカードが二枚ずつ、計四枚。ここから二枚選び、同種だったらお前の勝ち。別種だったら私の勝ち。これでどうだ?」
「ああ、それでいい」
即答したベルに、カトラは今度こそ悲鳴のような声を上げてしまった。
「ベル! その賭けはっ」
その賭けは駄目だ。ベルが圧倒的に不利だから。子供騙しに使われる簡単すぎる詐欺。ペアが二種類、バラバラが一種類、だから一見ペアのほうが引き当てやすいように見えて、実際は違う。六通りある引き方のうち、ペアを作れるのは二通りだけ。三分の一の確率でしかベルは勝てないのだ。だから駄目だ。せめて五分五分の勝負でなければ。
――駄目なのにそれ以上何も言えなかったのは、突然振り返ったベルに抱き上げられたからだった。ひょい、と、本当に軽々、子供か猫みたいに抱えられて、気が付いたら入ってきたドアの前に下ろされていた。
「悪い。少しだけ、静かにしていてくれ」
頭の上に大きな手がぽんと乗った。その手が離れていく。慌てて顔を上げたが、ベルはもう前に向き直っていて、やはりその顔を見ることはできなかった。
「一つだけ、希望を言っても?」
「なにかね」
「カードの種類、“犬”はそのままでいい。もう一つは“猛進”にしてくれ」
「験担ぎか」
「運試しには重要だろ」
「ふふっ、よろしい」
カポーニが面白がるように笑って、カードを変えた。促されて、ベルがカードに仕掛けがないか確認する。そしてシャッフルが始まる。ベルの目に追われないように、カポーニの手の下で、カードがくるくると入れ替わる。あるいは入れ替わっていないのかもしれない。
カトラは震える手を腹の前でぎゅっと握りしめていた。心臓が早鐘を打っていた。
(どうしてこんなことになってしまったの?)
(あたしのせいだわ)
と、この二つの言葉だけが頭の中をぐるぐると飛び回っていた。けれど、ああ、もう今更止められはしないのだ。
四枚が整然と並んだ。
「さぁ、選べ」
ベルは間髪入れず、右端と左端の二枚を引っくり返した。悩んだって分かるものではない、と割り切っているのだろう。しかしそれにしたって躊躇がない。カトラの心臓がひときわ大きく跳ねた。祈る間もくれないなんて。
そして、
「――負けだ」
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