scene 6 惚れた弱み
月曜日の朝九時、ベルは南西地区の六番辺りに立っていた。カトラに言われた家の周辺には、私服のジッロとニーコが張り付いている。私服であっても目立ちすぎるベルは、隠れて見張るには向いていないのだ。
長針が一分を指すのを見届けて、ベルは懐中時計をしまった。
時間がじりじりと過ぎていく。
(頼む)
と、祈るように思う。半信半疑だった。本当に空き巣は来るのだろうか。半信半疑でいるのが嫌で嫌でたまらなかった。どうして彼女を信じられないのだろうか。カトラが言ったことなら間違いない、と知っている。知っているのに信じ切れないのは、無論、見知らぬ男の影がちらつくからだ。
(いや、人間なんだから、たまには間違うこともあるだろうけど)
嘘だ、間違うことがあってほしくない。誰を選んだにせよ――自分を捨てたにせよ――正しい判断であってほしいのだ。いいや、やっぱり間違ってほしい。間違いだったと言って、戻ってきてほしい――。
懐中時計を開く。長針は二分と三分の間を指している。
ベルは溜め息をついて、時計をポケットに押し込んだ。見上げた空は腹立たしいほど透き通った水色をしている。しばらくは雨など降りそうにないのが恨めしく思えた。
煙草に噛みついて火をつける。この紫煙が雲になって、冷たい雨を降らすところを想像する。
耳に騒ぎが届いたのは、十時になろうかというころだった。待ちくたびれていた心が一瞬だけ幻聴を疑って、すぐに我に返る。怒声と罵声、そして、ジッロの大声が一本向こうの通りからかすかに聞こえた。
「――ル! ベル! そっちに行った! ――」
何が、と思う間もなく、すぐ脇の路地から少年が飛び出てくる。ベルは反射的に彼の肩を捕まえた。慌てふためいた様子で、周りを見る余裕など欠片も持っていなかった彼は、あっけなくバランスを崩してしりもちをついた。続けざまに飛び出てきた数人の男が、たたらを踏んで立ち止まり、ベル、正確には軍警の制服を見て顔色を変えた。そのうちの一人が思わず、といった風情で、
「なんっ……で、軍警がこんな近くに」
「何か不都合があったか?」
ベルが睨み見ると、男はふいと目を逸らした。それなのに立ち去ろうとはしないのだ。不思議に思ったベルが問い詰めようとしたとき、
「ベル! ――ああ、そうそう、そいつだそいつ、そのガキ」
ジッロが駆け寄ってきて、不審な男どもを押しのけた。ベルに肩を押さえられ、しりもちをついた格好のまま固まっている少年の前に膝を突く。
「よお、お前が空き巣だよな?」
少年は可哀想になるほど狼狽しきっていた。まだ十三歳かそれぐらいだ。そばかすの散った頬は色をなくし、がたがたの歯並びが震える唇から覗いていた。ジッロは普段の胡散臭さを消し去った笑顔を向けた。
「お前一人のアイデアじゃねぇよな。共犯がいるだろ? 誰の指示でやったんだ? 捕まっちまったもんは仕方ねぇから、素直にしゃべっとけ、な?」
「え、と……」
少年は潤んだ目を宙にさまよわせた。その目がすぅっと吸い込まれるように、ジッロの背後で止まった。
「姉ちゃん!」
ジッロが振り返り、ベルもそちらに目を向ける。通りの向こうから、男に付き添われて、掃除婦の制服を着た女がやって来るところだった。茶色い髪をひっつめた痩せぎすの女は、少年のすぐ傍まで真っ直ぐに来ると、彼の頭を押さえるように撫でた。
「……ふんっ、情けないこと」
「あんたが保護者ってことでいいか?」
「ええそうよ。ついでに、あたしが全部お膳立てしてたんだ。あたしら二人で空き巣ってわけ」
ジッロの確認に、彼女はあっさりと白状した。この分ではもう観念しているらしい。
「よーし、なんだかよく分からねぇが、とりあえず空き巣は確保だな。行くぞ、ベル」
「ああ」
ベルはぼんやりと応答をして、少年が立つのを手伝った。ベルの目の先では、空き巣の女を連れてきた男が、少年を追いかけてきた不審な連中に、こそこそと話しかけているところだった。男は黒い髪で、平均的な身長で、優しげな顔立ちをした――この間、カトラと一緒に歩いていた――人だった。不審な連中がメモを受け取って、どこかへと走り去る。それを見送るようにしてから、男も雑踏の向こうに消えていった。
☆
軍警本部で、二人の空き巣はすべてを白状した。
聞いてみれば簡単なことであった。掃除婦である姉が、仕事先で事前に仕掛けをしておく。数日経ってから、弟がその家に行き、窓拭きのふりをして中に入り、教えられていた物だけを持ち去る。家主が仕掛けに気付いていたら、侵入を諦めればいい。彼女の担当した家ばかりが被害に遭っていると知られたらすぐに捕まってしまうが、ランダムに日を置いてばれないように工夫していた。あの家は三日後、その家は一週間後、というように。南西地区に固まっていたのは、彼女の所属する派遣会社の担当区域だったからだ。荒らされた箇所以外が綺麗であることも、被害に遭った人の傾向も、これですべて説明がつく。空き巣は生計のため、というよりは、面白がってやっていたらしい。南西地区の端にあった彼女らの家には、今までに盗んだ物のほとんどが残っていた。
「しっかし、どうしてカトラちゃんには分かったんだろうな」
ジッロが呟くのを耳の端で聞きながら、ベルは意を決した。
勤務時間を終えて、制服を脱ぐ。急げば間に合うはずだ。
図書館に着いたとき、ちょうど閉館を知らせるオルゴールが鳴り始めたところだった。カトラは正規の司書ではないのだから、先に、正面から出てくることだろう。そう踏んで、まだ点灯されていないガス灯の下に立つ。図書館から出てきて、ベルの前を大きく迂回して通っていく人を、一体何人見送っただろうか。実際はそれほど多くなかったと思うが、体感では何百人と通っていったような気がした。
「――ベル」
久々に聞いた彼女の声は、わずかに震えていた。
「やあ、カトラ。あの……」
言いかけて、口を閉じる。いざ本人を目の前にすると、言葉が喉の奥に引っかかってしまって出てこなかった。シミュレーションはずっとしていたのに。空き巣のこと、お礼を言って、どうして分かったのか聞いて、それからこの数日のことを教えてもらおう、と。
カトラはベルのすぐ目の前に立ち、両手をぎゅっと組み合わせて、肩を縮こまらせて、うつむいていた――その姿は怯えているように見えた。それで、
「ごめん」
考えていなかった言葉が滑り落ちた。
「え?」
「ごめん、やっぱり来なければ良かった。その……」
彼女が顔を上げたのが気配で分かったが、うっかりその目を見てしまわないように、ベルは斜め下を向いた。無意識のうちに後退っていた。もうすっかり逃げ腰だ。これ以上胸の奥が痛むのには耐えられそうになかったのだ。
「本当に悪い。怖がらせるつもりも傷つけるつもりもなかったんだ。悪かった。それじゃあ」
「待って」
立ち去ろうとしたベルの袖を、カトラが掴んだ。
「ベル、お願い。落ち着いて聞いて。謝らなきゃいけないのはあたしのほうだわ」
「いや、別に……」
「お願いよ。お願いだから、話を聞いて。ね」
ほんの少しだけ、振り払ってしまおうかと考えた。この程度のささやかな力なら簡単に振り払えるだろう。そうしたほうがいいのではないか、と思って、しかしベルはゆっくりとカトラに向き直った。彼女はベルの腕を抱え込むようにしながら、じっとこちらを見上げていた。美しいすみれ色の瞳が真っ直ぐにベルを見ていた。
黙ったまま腰をかがめると、その瞳はほっとしたように緩んだ。
「あのね、最初から全部話すわ」
「うん」
「あたしの友達にサルバトールって子がいるの。その子が――」
結局、敵わないのだ。ジッロには馬鹿だと笑われるかもしれないが。
点灯夫が二人の横を通って、静かに明かりを灯していった。
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