scene 7 花は雨に散る
水曜日は午後から雨が降り始めていた。そんな気がして傘を持ってきておいたカトラが、物憂げな溜め息をついたのは、そういうわけで雨のせいではない。
(サルバ、今日も来なかったわ)
月曜日も姿を見せなかったのだ。それ自体は別に珍しいことでもない。必ず一緒にお昼を、と約束しているわけでもないし、研究が立て込んでいるときはそちらを優先する人だ。それならそれでいいのだが。
(まさか……デート、上手くいかなかったのかしら)
だとしたら心配だ。あんなに張り切って、楽しみにしていたのだから、もし何か失敗してしまったとしたら落胆もひとしおだろう。
(会えないことにはどうしようもないわ。どこかで大学のほうを訪ねてみようかしら)
金曜日も来なかったらそうしよう、と決めて、図書館を出る。
ヴィルヌーヴまでの道の途中、ふと、傘も差さずに立ち尽くしている女性が目に入った。明らかに様子がおかしい彼女を、町の人々は遠巻きにして過ぎていく。しかしカトラは立ち止まった。なんだか見覚えがあるのだ。雨に濡れて分からなくなっているが、あのスカートは美しいマーメイドラインだったはずだ。ブラウスには華やかなレースの飾りが付いていたはずだ。彼女は――
「……サルバ?」
カトラは彼女に傘を差し掛けて、腕を掴んだ。
「一体どうしたの? こんなに濡れて」
「カトラさん……」
雨が遮られたからだろうか。サルバトールのぼうっとした目がカトラを映した。いつもの柔らかさがない。ブラウンの瞳は冷たく固まって、眼鏡の向こうで縮こまっている。それが不意に揺れたと思ったら、急速にぼやけた。ほっそりとした手が、歪んだ唇を覆い隠した。その指に涙が伝う。
ずるずるとしゃがみ込んでしまった彼女の背中をさすりながら、カトラは、彼女の胸元からブローチが消えた理由を必死に考えていた。
☆
家まで連れていって、シャワーと服を貸して、ハーブティーを出して、ようやくサルバトールは落ち着きを取り戻した。
「あの、すみませんでした。取り乱してしまって」
「いいのよ、気にしないで」
気分が落ち着くように、と選んだハーブは、カモミールとペパーミントだ。そこにジンジャーとオレンジピールをスパイスとしてちょっとだけ。憂鬱を和らげる効果があると言われているハーブたちだ。ジンジャーは体温そのものを上げてくれる。冷たく凍えた心身には柔らかいぬくもりが何よりも大事だ。
やがて、ハーブティーが半分ほどなくなった頃、サルバトールがそっと口を開いた。
「日曜日、だったんです。一緒にレストランへ行って……そこで、お願いされたんです。お金を貸してほしい、と」
火曜日に給料が出るのだが、どうしても月曜日に支払わなくてはならない金がある。あと五十万ほど足りない。少しだけでいい、絶対に返すから、助けてもらえないだろうか――と、言われて、持っていた現金すべてと、あのブローチを渡したのだそうだ。いったん質に入れて、必要な金を作る。火曜日に入った給料でそれを質から出して、サルバトールに返すとその男性は約束した。
「でも、来なかったのね」
カトラの確認にサルバトールは小さく頷いた。それから――教えてもらっていた家の場所にも行ってみたがいなかった。仕事先だと言われていた会社にも「そんな人はいない」と言われてしまった。日を間違えたかと思って今日も同じ時間に待っていたのだが――と、途切れ途切れに説明した。
「それでようやく……分かったんです」
また潤んできた目から涙を飛ばすように頭を振って、続ける。
「私が馬鹿だったんです。浮かれていました。……できることなら何でもしてあげなくてはいけない、と思って……私みたいな人間を、好きでいてくれる人なんて、これまでに一人もいなかったものですから――ええ、そうです。忘れていました。一人だっていないんです、そんな人」
カトラは何も言えなかった。そんなことないわ、とか、誰だって浮かれるものよ、とか、次の出会いが絶対にあるわ、とか、そういう軽い言葉たちが頭をよぎっては消えていく。言えるわけがないのだ、そんな軽すぎる言葉など。必要なのはそんなものじゃない。
静かに涙を流す彼女の背中をさすりながら、カトラはふつふつと音を立て始めた腹の底をなだめるように、じっと天井を睨みつけていた。
(どうしたらいいのかしら)
サルバトールが帰ってからも、カトラはずっと天井を睨んだまま考え続けていた。
彼女は「お金のことはもういい」と言った。騙された自分が悪いのだし、すぐに生活ができなくなるほどではない、だからもういいのだ、と。軍警に言うつもりもないとはっきり告げた。真っ赤に腫らした目で、寂しげに微笑みながら、
「私はただ、失恋したというだけです」
と。
その彼女の意思を尊重しないわけにはいかない。恨まず、憎まず、ただ静かに現実を受け止める姿は、立派だと思えるほどだ。けれど。
(許せない。許さないわ。あんなに素敵で――一人で頑張っていて――優しい人を騙すなんて!)
今やカトラのはらわたはごまかせないほど煮えくり返っていた。熱しすぎた牛乳のように怒りが膨れ上がって、喉を焼き、口からあふれ出しそうになる。服を選んでいるときのサルバトールの、あの最高に幸せな笑顔を! こんな風に踏みにじるなんて!
うっかり涙がにじんだのを手の甲で乱暴にこすり取って、カトラはひとつ深呼吸をした。ゆっくりとまばたきを数回。
(……せめて、どうにかして、ブローチだけは取り返してあげたい)
そのために必要なことを、ひとつずつ丹念に、脳内でリストアップしていく。
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