scene 8 上手に騙されて

 翌朝、カトラが真っ先に向かったのは、南西地区の古本屋だ。サルバトールが男に出会った場所。昨日の昼から降り始めた雨はまだやんでいなかったが、無視できる程度の小雨になっていたので、傘は持たず、コートのフードをかぶるだけにする。

 だから、店の外でコートを脱いで、外側を内向きに畳んでから入ってきたカトラを見て、偏屈そうな店主の老人は二、三頷いてから視線を本に戻したのだ。

 狭い店内にはカトラと老人の他に誰もいなかった。乾いた埃のにおいが雨に閉じ込められて、店全体が重苦しくなっている。しかし、まめに掃除をしているらしい、本が埃をかぶっているということはなかった。


「あの、少しお尋ねしてもいいかしら」


 店主はうろんげに目線を上げた。口の周りの髭をなでた手つきは神経質そうで、警戒心が見て取れる。


「ここによく、魔物の研究者の女性がいらっしゃらない? 短い髪の」

「それがどうしたね」

「その人が、ここで出会ったっていう男の人に騙されて、大切なものを渡してしまったの。それで、その男の人を捜しているんだけど、何かご存じないかしら」

「客はただの客だ。氏素姓なんざ知ったことか」


 素っ気なく手を振った老人に、カトラは半ば噛みつくような態度でカウンターに手をついた。


「氏素姓なんて詳しいことじゃなくていいのよ。ほんのちょっとのことでいいの。格好とか、髪の色とか、背丈とか……お願い、ちょっとだけでいいから思い出して」


 老人は面倒くさそうに顔を歪めた。


「知るか、そんなもの。いちいち見ちゃあいねぇよ」

「……そう。そうよね。ごめんなさい、お邪魔しちゃって」


 カトラは肩を落とした。こうなることを予期していなかったわけではないが、落胆は隠しきれない。


(ううん、諦めないわ。大丈夫、次の手は考えてあるもの)


 本人を見つけられたらよかったが、それが無理なら他の手を打つまでである。サルバトールのブローチが、質屋ならまだしも、宝石商に流されていたらまずい。加工されてしまったらおしまいだ。急がなくては。


「ありがとう、答えてくださって。それじゃあ――」

「ああ、そういや」


 立ち去りかけていたカトラが振り返ると、老人は本に目を落としたまま、


「ここの掃除をな。ブルーノ清掃って業者のエレナって婆さんに頼んでるんだが。あの婆さんなら、余計なことあれこれ見聞きしててもおかしくねぇだろうな。何度かかち合ってて、だらだらしゃべってたようだしよ」

「――ありがとう、おじさま! 助かるわ!」


 跳ね上がった声のせいか、“おじさま”などと呼ばれたせいか、老人はぎょっとしたように顔を上げた。が、そのときにはもうカトラは店の外に走り出していた。


   ☆


 ブルーノ清掃の事務所は、南西地区を真っ直ぐ貫く大通りから、一本西側に入ったところに建っていた。周りの家々に埋もれるような小ささだ。これでは本当に最低限の事務仕事しかできなさそうである。見るからに最底辺の派遣会社。


「ごめんください」


 軋むドアを押し開けて中に入ると、ちょうどカウンターの裏から出てきた女性が、吊り上がった細い目で(その狐目は髪を乱雑にひっつめているせいだったかもしれないが)、カトラを睨むように見た。カトラより細くて背が高く、異様に骨張って見える。丸首のエプロン付きワンピースは掃除婦の制服だ。それにしても陰気なグレー。かなり長く着ているらしく、すり切れた袖口と膝周辺の色落ちのせいで、陰気さが倍増していた。

 彼女は掃除用品をバケツに投げ込みながら、ことさら馬鹿にする口調で言った。


「なんかご用? お嬢ちゃん」

「ここにお勤めのエレナって方を捜しているのだけど、どちらにいらっしゃる?」

「おいおい、あのババア、ついに盗みでもやったのか。しかし駄目だね、こんなお嬢ちゃんにばれるようじゃあ。ふんっ、情けないこと」


 と、歯並びの悪さを見せつけるようにけたけたと笑う。カトラは「違うわ」と言いかけてやめた。こういう手合いは勘違いさせておいたほうが都合良くしゃべってくれるものだ。思った通り彼女は、すり切れたたわしと、新品の新聞紙と、ほとんど透明な糸の束を続けざまにバケツに放り込みながら、


「あいつならこのすぐ裏の長屋に住んでるぜ。一階のどっかだ。ぜひ軍警に突き出してくれよ、あんな役立たずの給料泥棒、いなくなってくれりゃ万々歳だ」

「教えてくれてありがとう。ご期待には沿えそうにないけれど」


 カトラは笑みを浮かべて踵を返した。


   ☆


「アァ、アァ、はいはい、覚えてるよ、覚えているとも」


 エレナはかくしゃくとした老婦人だった。きっと若い頃は背丈が高くて、肉付きも良かったのだろう。すっかり縮んで腰も丸くなっているが、いまだに骨太であることが窺えた。気前よくカトラを招き入れて、ずいぶん前に夫に先立たれたことや、南地区に住む息子の嫁がよくできていることや、それに比べて掃除婦の若いのは礼儀がなってなくて駄目だということや、最近話題の空き巣のことや、ご近所のトラブルなんかをひとしきりしゃべりきってしまうと、ようやく本題に入る隙を与えてくれた。


「ちょいと変わり者だが、いいお嬢さんだったね。真面目すぎて、なんだか妙な男に騙されそうな感じがしてたんだが、案の定かね」

「ええ、残念ながら。それで、その男性を捜しているの。どんな人だったか教えてくださらない?」

「そうさねぇ、確か……そうそう、マノロって呼ばれてたよ。背丈は、まぁ、どれくらいかねぇ、普通くらいかしら。勤め人にしちゃだらしんない髪でね、色はまぁまともだったけども、おしゃれだかなんだか知らないが、あたしが親だったらあの前髪引っ掴んでばっさり切ってやるところだよ。耳にゃあピアスなんて生意気に、いくつも着けちゃって……そのくせどうにもひ弱な感じでね、いけ好かない顔をしてたっけ。ちょっと見じゃあ真面目そうに、優しそうに見えてさ、実はなんてこたぁざらにあるんだから。あんたも気をつけなきゃいけないよ。ああいうのが博打に狂ったりするんだから」

「ええ、気をつけるわ」

「あんたにはいい人がいるのかね。いなけりゃ世話してやろうか」

「ありがとう、でも平気よ。とってもいい人がいるの」

「そうかい、そりゃあいい」


 エレナは深く頷いた。きゅうと細まった目がしわの中に埋もれる。


「うまく騙されておくんだよ。死ぬまでいい人だと信じていられりゃあ儲けもんだからね」

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