scene 9 そそっかしい光明

 お礼を言ってエレナの家を後にすると、カトラはそのまま西地区へ向かった。雨はすっかり上がっていて、お日様の光があちこちにきらきらと反射していた。濡れた道を足早に進んでいく。名前――それもおそらく偽名――が分かっただけで見つけられるとは思っていない。


(蛇の道は蛇、って言うものね)


 こういうときはプロを頼るのだ。

 西地区の十六番と十七番の境目辺りに、その小さな家は建っている。この町らしい、赤い屋根とチョコレートブラウンの壁が可愛らしい二階建てだ。呼び鈴を鳴らすと、いつもとは違って、「はいはいはい」と若い男性の声が駆け寄ってくるのが聞こえた。


「はいどうも、どちらさん?」

「奥様にお会いできるかしら? ヴィルヌーヴのカトラって言ったら通じるわ」


 思いがけない来客だったのだろう。黒髪の男はドアを押し開けた格好のままぽかんと口を開けてカトラを見下ろして、それからようやく「ああっ、はいはい、ちょっと待っててね」と中に戻っていった。

 開けっぱなしの玄関先に立ったまま、カトラは小首を傾げた。


(奥様にお子さんはいらっしゃらなかったと思うのだけど……あたしが知らなかっただけで、お孫さんかしら? それか、お手伝いでも雇ったのかしら。……あら、だとしたらおじさまに何かあったってこと? でもそれにしては、空気が悪くないわ)


 ひさしの裏を眺めながら考えていたカトラにとって、ずいぶん遠くから聞こえてきた「はいはいはいはい」という声はありがたいものだった。彼が到着するより先に考えを切り上げて、前に向き直る。

 優しげな顔立ちの男性はにっこりと笑って、奥を手で示した。


「はい、奥様がすぐにお通ししろ、と」

「ありがとう。お邪魔するわ」

「はいはいどうぞどうぞどうぞ」


 うやうやしく、というにはやや慌ただしいが、一礼をして前に立った彼の背中についていく。

 明るいリビングで、奥様は大きな籐椅子に座って、午後のお茶を楽しんでいるところだった。その香りは間違いなく、カトラがブレンドしたハーブティーのものだった。彼女はいつもどおり、上品なモスグリーンのワンピースに身を包み、薄く化粧をしていた。真っ白いふわふわのショートカットは綺麗に整えられていて、実際の年よりずっと若く見える。ヴェロニカとほとんど変わらない年齢のはずだが、ヴェロニカとは違う方向で長生きしそうなお人だ。

 彼女はゆったりとこちらを見て、穏やかに会釈した。


「いらっしゃい、カトラさん」

「こんにちは。お体の調子はどうかしら」

「おかげさまで」


 上品に微笑んだこの奥様が、元々は詐欺師だったというのだから驚きだ。先日、スリの書いた暗号を読んでくれたのもこの人である。足腰が悪くなってしまって、ほとんど動けない彼女のために、旦那さんがヴィルヌーヴへ買い物に来ていたのだ。気休めになれば、とおすすめしたハーブティーを気に入ってくれて、それから仲良くなったのである。

 奥様はカトラに椅子を勧めながら、入り口付近で直立不動の構えを取った男性に目を向けた。


「ディノ、お茶を淹れてきて」

「はいはいはいはいただいま!」


 ばたばたと彼が台所に消えてしまうと、奥様は軽く笑った。


「ごめんなさいね、落ち着きがなくて」

「お手伝いさんを雇ったの?」

「そうと言えばそうね」


 一旦は曖昧な言い方をして、奥様はすぐに補足した。


「あの子、うちに泥棒に入ったのよ」

「あら」

「夜中にごそごそと音がするものだから、ほら、南西で調子に乗ってる空き巣さん、あれがついにこっちにも来たのかしらと思って、どちら様、って声を掛けたのよ。そうしたらあの子、びっくりした拍子につまずいて、引っくり返っちゃってね」


 手を口に当てて、奥様は心底おかしそうにくすくすと笑った。


「起きたら平謝りするの。可愛いからそのまま雇うことにしたのよ」

「そうだったのね。平和なお話で良かったわ」

「ええ、本当に」


 奥様はハーブティーを傾けて、


「それで、カトラさん、あたしに何か手を貸せることがあるかしら。うちの人ならお散歩中だから、気にせずお話しして」


 おじさまは――当然だが――彼女が再び犯罪に関わることにいい顔をしない。カトラはおじさまの留守を狙った悪者のような気分になってうつむいた。


「……ごめんなさい、何度も頼ってしまって」

「いいのよ。あたしだってあなたに助けられているもの。さ、話してごらんなさい」


 優しいながら有無を言わせぬ口調だった。それに甘えて口を割る。

 サルバトールの件をすっかり話し終えてしまうと、奥様は軽く息を吐いて椅子の背に寄りかかった。


「そういうことなら、南西のいくつかの酒場を当たってみるのが早いんじゃないかしら。ただ、ちょっと情報が少ないわね。見つかるかどうかは確かに言えないわ」

「そうよね……」

「あのー、すみません」


 カトラにお茶を出したきり、後ろのほうで大人しく立っていたディノが、急に口を挟んできた。


「マノロって名乗ってるピアスの男なら、俺、たぶん知ってるっす」


 思わぬ救いの手に、カトラは「まぁ!」と歓声を上げた。


「本当に?」

「はい。ここ一ヶ月くらいのことっすよね? あのー、ご存じの通り、俺、ちょっと悪さしてたもんで。あいつがよく来てた酒場とか賭場とか、知ってます」


 思わず顔中を輝かせてしまったのが自分でも分かった。ディノが照れたように頭を掻き撫でる。


「それならディノ、彼女を案内してさしあげて。ついでに護衛も」

「はい!」

「手を出しちゃ駄目よ。カトラさんにはもうお相手がいるんだから」

「えっ……あっ、はい! はいはいはいはい、大丈夫っす! そうっすよね、はい、分かってたっす! 当然! いや任してください、そこいらの男には指一本触れさせないんで! 俺も含め!」


 ディノは快活に笑いながら勢いよく自分の胸を叩いてみせて、叩きすぎたらしく少しむせた。

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