scene 3 自由の代償


「あの、カトラさん。少し、相談してもよろしいですか?」


 と、サルバトール・ネラーは恥ずかしげにうつむいて、小さな声で続けた。丸い眼鏡の向こうで、柔らかなブラウンの瞳がわずかに潤んでいる。


「どうしたの?」

「私、魔物のことはよく分かるのですが。ですが、その……」


 彼女の声は一段と小さくなった。


「……恥ずかしながら、恋愛のことは、まったくの無知でして……」

「あら」


 カトラはちょっと目を丸くして、それから彼女に真剣な眼差しを向けた。サルバトールは魔物学者だ。図書館に隣接する大学の研究員で、たびたび閉架の本を求めてやってくるものだから、この一ヶ月ですっかり親しくなったのである。ランチを一緒にしながら、相談事に乗るくらいに。


「好きな人がいるの?」


 端的な問いに、サルバトールは小さく頷いた。真っ白な頬がピンクに染まり、耳など心配になるほど真っ赤だ。短く刈り込んだ髪のせいでそれが丸見えになっていて、また髪の色が薄いものだから、余計に目立って見える。


「はい。あの、実は、少し前から親しくしてくださっている方がいまして」

「そうだったのね! どんな人なの?」

「少し年上でしょうか。古本屋さんに行くと、大抵いるのです。店員さんではないのですが」


 彼女は頬を染めたまま微笑んで、嬉しげに言葉を続けた。


「明るくて楽しくて、とっても親切な方なのです。私の探し物を手伝ってくださるし、私の話もすごく楽しそうに聞いてくれて……私、魔物のことしかしゃべれないのですが。それで、彼の話も楽しいのです。物知りなのですよ、すごく。絶対にほどけない靴紐の結び方とか、カードのかっこいい切り方とか、そういうことをたくさん知っていらして。――それで、その方が、今度お食事に行こうと誘ってくださったのですが……」


 と、彼女は不意に顔を曇らせて、自分の胸元を見下ろした。白いワイシャツ。グレーのベスト。紺のズボン。ストレートチップの革靴。いずれも見るからに上質な生地で、上品ではあるが、飾り気はまったくない。ループタイを留めるブローチには紫の宝石がはめ込まれているが、凝った作りではない。素敵だが女性的とは言いがたかった。


「この服装を、一体どうしたらいいものか、見当もつかなくて……だいたい私のような、背ばっかり大きくて、女性らしくなくて、そのうえ魔物の研究に明け暮れてる変人が、慌てて着飾ったところで……」


 サルバトールは切ってしまったことを後悔するかのように、自分の短い前髪を引っ張った。


(気にすることないほど綺麗なのに)


 垂れた目尻からは温和さがあふれ出ているし、形の良い額はつややかだ。ベリーショートとの相性もいい。研究に適した格好と相まって、遠目には男性のように見えるかもしれないが、話す距離になれば女性らしい美しさはよく分かる。だから自信を持って、という言葉をカトラは飲み込んだ。


「そういうのは専門家に聞くのが一番だわ。明日、お暇かしら?」


 頭の中にはすでに、この件に最も適した二人組の顔が浮かんでいた。


   ☆


 大人っぽくて女性らしく、けれど背伸びはしすぎないで、親しみやすい感じに。そんな曖昧なオーダーにも、ルチアとエンリカは喜んで応えてくれた。


「えー、めっちゃいい感じじゃん」

「背丈があるから映えるよね」

「分かるー。五センチくらい分けてほしい」

「それは私の台詞よ。ね、こっちでも良くない?」

「あー、いい、めっちゃいい!」


 サルバトールは着せ替え人形と化して、初めは萎縮していたが、今やすっかり馴染んでいた。出してもらった設計図と今着ている完成品を見比べては、目を輝かせている。そういう構造の部分に目が行くのは彼女の生来の気質なのだろう。


「ここにひだを作った分がこっちに寄って……なるほど、ここでつながるのですね。すごいです、こんなに綺麗に出来上がるなんて」

「最近いい糸ができたのよ。ほとんど透明でさ、全然目立たないの。めっちゃ高いんだけどね。なんだっけ、なんとかっていう魔物の毛で」

「ああ、ウィローヴォルプですね。北国の小型の魔物で、雪に隠れるために透明の毛を持っているという、そういえば実用化の論文が出てもう数年が経っていますね。流通するまでになっていたとは知りませんでした」

「うわ、めっちゃ詳しいじゃん。さすが」

「いえいえ。しかし、それを除いても綺麗な縫い目です。あの、ここの処理はどうやっているのですか?」

「それはね、先に輪のほうを半分だけ縫ってから引っくり返して――」


 と、始終こんな調子で、着た服すべての製作過程を話しながら進むものだから、一日があっという間に過ぎてしまった。オーナーが「あらあら、まだやってたの? もう真っ暗よ、帰りなさい」と言いに来なければ、日をまたぐ羽目になっていたかもしれない。

 特に気に入った何着かの直しを頼んで店を出ると、サルバトールがほうと息を吐いた。時間はまだ早いが、十月の中旬らしく、日は完全に落ちきっている。熱気に満ちた部屋にこもっていたせいか、妙に肌寒く思えて、カトラは上着の前を閉じた。


「いつも行く古本屋さんの近くに、こんなに素敵なお店があるなんて、知りませんでした」

「あら、この近くなのね」

「はい。南西側ですが。……あの、ありがとうございました、カトラさん。素晴らしいお店を教えてくださって」

「気に入ったのがあって良かったわ」

「はい。ちょっとだけ、自信もつきました」


 と、彼女は指先でブローチに触れた。どうしてもこれだけは、何を着ようと絶対に着けると主張した唯一の物だ。

 カトラの視線に気が付いたように、サルバトールは微笑んだ。


「これは、私の父が、亡くなる直前にくれた物なのです」


 カトラはそっと息を飲み込んで、止めた。


「魔物の研究者になりたいなんていう、変わった娘のことを、最後までずっと応援してくれていました。母を説得してくれたのも、大学までの費用を出してくれたのも……。そしてこれは、まとまったお金が必要になったら売りなさい、と、そう言って、私にくれたのです。幸い、母の仕事も、私の仕事も上手くいっていますから、お世話にならずに済んでいますが」


 彼女の話を聞きながら、カトラは胸の奥の痛みを必死にやり過ごそうとしていた。良い父親だ――別に、自分の父が悪い人というわけではないが。羨ましいとか、憎らしいなんて、感じるわけがない。彼女と自分の状況はほとんど同じなのだから。支えられて、自由を貰っている。そのことに差などない。

 同情なのか共感なのか分からないで、もしかしたらもっととげとげしい気持ちも混ざっているのではないかと思いながら、カトラは無理矢理微笑んだ。


「デート、楽しんできてね」

「はい」


 サルバトールは花開くように笑って、大きく頷いた。

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