scene 3 月が綺麗なせい

 その日、カトラは家を抜け出して、一人列車に乗っていた。涙でくぐもった耳の中に、父親の声がぐわんぐわんと鳴り響いていた。


 ――魔法をろくに使えないなど、エヴァンジェリスティの名折れだ。お前の居場所がこの家にあると思うな、役立たず。


 エヴァンジェリスティという名の家は、代々優秀な魔法使いを輩出している名家だった。父親は王立魔法学研究所の所長で、魔法学の権威で、王家の相談役でもある。その父のもとに生まれておきながら、カトラはなぜか魔法を上手く使えなかった。どれだけ勉強しても、何度挑戦しても駄目。

 そのうちに父はカトラを見限って、家に閉じ込めるようになった。


 ――お前など家の恥をさらすだけだ。絶対に外へ顔を出すな。


 欠陥品は政略結婚にも使えない、と、そういうことだろう。対外的には、娘は病弱で外に出られない、ということにしているようだった。母も病気がちだったから、何の違和感もなく受け入れられていたらしい。

 それで、十歳くらいだったか、以来カトラは一度も屋敷から出たことがない。母や弟、家庭教師や使用人たちと話す以外は、ずっと本を読んで過ごしてきた。けれど、その日々をすべて否定するわけではない。家庭教師の女性は言語も数学も音楽も、地理から歴史から裁縫にいたるまで、本当に何でも教えてくれた。庭師のおじさんは、庭に咲いているかどうかにかかわらず、あらゆる草花のことを教えてくれた。料理人のおばさんは料理の基本を仕込んでくれたし、部屋の中を綺麗にするコツは掃除夫さんから学んだ。

 弟は、あの父のもとで育ちながら、なぜかカトラによく懐き、姉さん姉さんとまとわりついてきた。小さい頃は「絵本読んで」「一緒に遊んで」と時間のある限りせがんできたし、大きくなってからも「姉さんの刺繍が一番綺麗」とか「一緒に勉強して」と――三つしか違わないのに、その可愛さと言ったらなかった。ただ甘えたがりなだけなのか、カトラを喜ばせるためにやっていたのかは分からないが、とにかく素直で明るくて優しかった。

 そう、彼は。リカルドは。

 生まれながらに優秀で、父の期待を一身に背負いながら、何の気負いもなく乗りこなしていた弟。自分と違い、魔法使いとしてどんどん花開いていく彼のことを、憎く思わなかったと言ったら嘘になる。憎い。悔しい。けれどそれ以上に、情けない。彼に姉として何も返してやれないことがどうしようもなくやりきれなかった。

 それに、父と弟は真っ直ぐで鮮やかな金髪と、青色魔石のような瞳を持っていた。それらを見るたび、劣等感が胸の内に積もっていった。自分の髪はくすんだ金色、うねるくせっ毛。自分の瞳は中途半端な紫色。才能だけでなく見た目までもが、自分を家族から排斥するように思えた。

 そういう長年の蓄積に加えて、母の逝去が引き金になった。母を失った衝撃はカトラを襲い、そして父を襲った。荒れ気味になった父は――顔を見せるな、なぜまだここにいる、出ていけ、云々と――カトラを一層圧迫するようになった。しかも、それだけでは飽き足らず、カトラと幼い頃から親しんでいた家庭教師や使用人たちを全員入れ替えてしまったのである。

 あまりに窮屈すぎる屋敷を我慢できなくなるのに、二ヶ月とかからなかった。家を出て、母の故郷の小都市デラクアへ行こう。カトラがそう決めたとき、リカルドは止めなかった。


 ――そうしたほうがいいと思う。姉さんは絶対に、ここじゃない別の場所で生きるべきだ。こっちのことは僕に任せて。

 ――姉さんの幸せを誰よりも願ってる。


 そう言って笑って送り出してくれた弟の気遣いが嬉しくて、なのにそれが最後通牒のようにも思えて悲しかった。引き留めてすらもらえない。弟までも、カトラが出ていくことを望んでいる。


(どうしてあたしは……あたしだけ、家族になれないのかしら……)


 理由なんて分かっている。役に立てないからだ。何のためにもならないからだ。

 家族になるのに血の色なんて関係ない。愛され、必要とされれば、それだけで家族になれる――逆もまたしかり。愛されなければ、必要とされなければ、家族にはなれない。

 そんなことを考えて、涙ながら列車に揺られている最中、空には冴えた満月が煌々と輝いていたのだ。

 その光の美しさと言ったら!

 カトラは溜め息を呑み込んだ。今は足下が気にかかるせいで睨みつけることもできない。自然と下がった視線の少し先で、ベルの手がわずかに揺れている。


(どっしり構えていられるのってすごいわ。いつも落ち着いているし、ベルには怖いものなんてないんじゃないかしら)


 それに比べてあたしは――と翻りそうになった思考を慌てて止めた。


(悪い方向にばっかり考えるのは良くないことよ! ベルはベル、あたしはあたしなんだから。違うのは当然! 大事なのは、あたしにできることをやることよ。……こんな小さなことでベルを煩わせるのは嫌だわ)


 意識的に顔を上げ、できる限り元気な足音を出す。耳もいい彼に、不安がる鼓動を伝えてしまわないように。

 少し前を歩く親子連れの姿がかろうじて見えた。両親に挟まれて、両手をつないでいる女の子。暗闇にも構わず楽しげに足を上げている。


(……でも、あたしはもう子供じゃないもの)


 カトラは自分の両手をぎゅっと組み合わせた。まだ夏なのに、やけに指先が冷えている気がした。

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