step 4 愛するということ
scene 1 サーカスのチケット
カトラとベルが、いつもの料理店に入ったときのことである。カウンターの端を陣取るようになった女性が、唐突に言ったのだった。
「ねぇ、サーカスのチケットが二枚あるんだけど、興味ある?」
一ヶ月ほど前から、東の草原にサーカスが立っていた。
女性は料理店の店主を呪った後、町を飛び出して、サーカス団の世話になっていたという。徒歩移動が伝統のサーカス団は、ある種の移動集落のような性質を持っている。芸をする人だけでなく、鉄道代を節約したい行商人や旅人、行き場をなくした浮浪者や家出人など、いろんな人々の集合体になっているのだ。移動時にはどうしても魔物と行き合うため、元犯罪者だろうと戦力として歓迎される。なかでも彼女のような野良の魔法使いは重宝されていて、出ていくと言ったときは相当止められたらしい。チケットはそのときに押しつけられたものだと言った。
「あと一週間くらいでどっか行っちゃうと思うけど。それと、祭りの日はお休みだから気をつけてちょうだいね」
「モルガン、あなたに愛想というものは期待していませんが、言うならせめてもう少しにこやかに言っていただけませんか」
つっけんどんな態度を取る女性を、声を取り戻した店主が責めるような目で見やった。前回来たときに初めて聞いたのだが、彼はこの甘い声音で容赦なく毒を吐くのだ。「取りたくなるのも分かるでしょ」とモルガンに言われたとき、ちょっと否定する気になれなかったくらいに。
たしなめられたモルガンが店主を睨む。
「私の笑顔は有料よ」
「ああ、それでは仕方ありませんね。あなたの笑顔は売れるものじゃありませんから」
「エリオ、あんた本当に懲りてないわね! もっかい呪われたいの?!」
「それにしても、サーカスにいたなんて。そんなこと一言も言わなかったじゃないですか」
「だって興味ないでしょ」
「ええ、サーカスには興味ありませんけど」
「だから言わなかったのよ!」
怒った彼女がカトラたちのテーブルにチケットを叩きつけて店を出ていってしまうと、まるでそれを見計らってからそうしたように、エリオは「あなたがどう過ごしていたかには興味ありますよ」と呟いた。
思わずカトラは口を出した。
「それ、本人に言ってあげなくちゃ駄目だと思うわ。笑顔の話だって、売り物にしたくない、って意味でしょう?」
「本人が目の前だと、どうしても憎まれ口しか叩けないのですよね」
不思議なものです、と彼は反省の色のない微笑みを浮かべた。それからチケットを指さす。
「これ、よければ貰ってやってください。本当に私は、サーカス見物に行く気はないので」
「出ていってしまったけれど、大丈夫なんですか」
「平気ですよ。お腹が空いたら戻ってきます。猫みたいなものでして、とても愛らしいんですよ。この間なんて私のためにわざわざ、私の好物のフルーツを買ってきてくれたんですが、それをこっそり冷蔵庫に入れておきながら、気付かれないのは嫌だったんでしょうね、白々しく私に冷蔵庫を見るように誘導してきて。それがまったく下手くそな誘導で、笑わないようにするのが大変でした。まったく、本当に可愛いお人です」
ぺらぺらぺらと流れるようにのろけてみせたエリオに、カトラは呆れた目を向けた。そんなに想っているのならどうして言ってあげないのかしら?
「おや、失礼、ついしゃべりすぎてしまって。ご注文はお決まりですか」
「あっ、ええと、それじゃあ――これにするわ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
店主が厨房に引っ込んでいくと、テーブルの上のチケットをベルが手に取った。
「サーカスか。行ったことないな」
「あたしもないわ」
「じゃあ、ありがたく貰おうか。ちょうど良かった。祭りの日は巡回を頼まれてて」
そう言って、やや気まずそうに髪の毛をかきなでる。もしかして、本当はお祭りに行こうと誘ってくれるつもりだったのだろうか。だとしたら、頼みを断り切れなかった自分を情けなく思っているのかもしれない。
気にしなくていいのよ、と言う代わりに、カトラは話を戻した。
「楽しみだわ。いつがいいかしら」
「夜の公演ならいつでも。なんなら明日でもいいくらいだよ」
「疲れちゃわない?」
「平気だよ。今は護衛が仕事で。日中だけの勤務になってるんだ」
「護衛?」
「首都から魔法学研究所の魔法使いが来ていてさ。魔法使いというより学者だと本人は言っていたけど」
カトラはそっと息をのんだ。動揺したのを悟られないように、こっそりと息を吐く。
「ほら、この間青色魔石の鉱脈が見つかっただろ? あれの調査にって。だからしばらくは夜勤なし、しかも土日が休みになってるんだ」
「そうだったのね」
「暑さのピークが過ぎてて助かった」
「日中はまだ暑いでしょう?」
「ちょっと前までよりはましだ。それにだいたい山の中にいるから、この辺よりずっと涼しいよ」
それは良かったわ、と、自分の言葉が薄っぺらく響いた。良かったと思っていないわけではない。一番暑いときのベルは本当につらそうだったと、この目で見て知っている。だからそれが和らいだのは喜ばしいことだ。
けれど――
(首都から来た魔法使い。学者。……あの人たちは)
――その代わりに押しつけられた新しい苦しみがあるんじゃないだろうか。
カトラは少し迷って、結局尋ねた。
「ね、首都の魔法学者って、嫌な人じゃない? 大丈夫?」
ベルは意外そうに目をしばたたかせた。
「別に、嫌な人では……まぁ、確かに、物の言い方にはちょっと引っかかることもあるけど。ジッロは毎日苛々してるな。俺は別に。普通の子だと思ってるよ」
本当に気にしていない様子だった。口調も声音も、しんとした落ち着きに満ちている。仮に耐えているのだとしても、それはたとえば大樹が小さな虫の一匹に樹液を吸われるようなもので、とりたてて騒ぐことではないのだろう。
変な質問をしてしまった、とカトラはひどく後悔した。これでは、嫌な人だと思われるのは自分のほうだ。狭量だった。浅慮だった。すべての魔法学者が自分の知っているような人間とは限らないのに、自分のトラウマをベルへ押しつけるような真似をしてしまった。
ははっ、と、こらえきれずに飛び出してしまったような笑い声が聞こえた。目を上げると、ベルが慌てて口元を覆い隠したところだった。目元には隠しきれない笑いがにじんでいる。
「いや、ごめん。そんなふうに心配されることってないから、つい。普通は逆なんだぜ」
「逆?」
「“お前のその顔で相手を怖がらせてないか、大丈夫か”って」
と、わざとらしく顔をしかめてみせる。その顔は確かに威圧的だ。子供は泣き出し、泣く子は黙るだろう。それが表面的なものに過ぎないと知らなければ、大人だってひるまずにはいられまい。
彼はすぐに相好を崩した。
「じゃ、明日で決まりだな」
「うん。すごく楽しみだわ」
話を掘り下げられなかったことに安心して頷くと、ベルはいそいそとチケットをしまい込んだ。
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