extra scene 番犬は待てがお上手
「や、お嬢さん。いい番犬をお連れだな」
カトラは手元の刺繍から目を上げた。軍警の制服を着た男性が、からかうような笑みを浮かべて二人を見下ろしている。どうやらベルと知り合いのようだ。
「ええ、うらやましいでしょう」
「まったくうらやましいね。美人な彼女の隣で寝こけてられるなんて」
ベルは木に背中を預けて、腕を組み、すっかり寝入っていた。夜勤明けと、木陰の涼しさと、カトラの邪魔をしたくないという気持ちとが重なった結果、二時間ほど前からこの状態になっているのだ。
「そんなんで仕事になってんのか?」
「完璧よ。知り合い以外、誰も近寄ってこないもの」
「そりゃそうか。しかし残念だな。その番犬がクビになったら、俺が立候補できたのに」
「あちこちに見境なく立候補していたら、クビになる前に過労死しちゃうわよ」
「おっとこいつは手厳しい」
男はちょっとばつの悪そうな顔になって頭をかいた。
そのとき不意にカトラが小さな悲鳴を上げたのは、大きめの虫が目の前をかすめ飛んだからだった。
瞬間、ベルの目がぱっと開いた。
「どうした?」
「あ、ごめんなさい、起こしちゃって。なんでもないわ。大きな虫がすぐ近くを飛んでいったから、ちょっと驚いただけなの」
「そう」
彼は大きくあくびをして、ぐっと背筋を伸ばした。
「よく眠れた?」
「おかげさまで。刺繍は進んだ?」
「見ての通りよ」
「……もしかして俺、だいぶ寝てたか」
「二時間くらいかしら」
「道理で。腹が減ってると思った。昼飯にしないか」
「そうね。でも、あと五分だけ待ってくださる? きりが悪くて」
「いいよ、十分でも二十分でも。ゆっくりやってくれ」
「ありがとう」
ベルはもう一度あくびをして、そこでようやく傍らに同僚がいることに気がついたらしい。途端に顔がぎゅっとゆがんだ。
「何してんだよ、お前」
「職場見学」
「なんだそれ。見世物じゃねぇんだぞ、仕事に戻れよ」
「あーあ、俺もこんな美人の横で仕事してぇなぁ。じゃ、頑張れよ、番犬くん」
男はひらひらと手を振って去っていった。
ベルは不服そうに鼻から息を吐くと、再び腕を組んで木にもたれかかった。
彼がもう一度寝るような体勢になったのを横目に感じて、本当に上手だわ、とカトラはこっそり思った。待たせておいてこんなことを思うのは間違っているかもしれないが、待たれていることを意識すると緊張するのだ。申し訳ないわ、とか、何かお話ししなくちゃ、とか、そんなことばかり考えてしまう。こうやってリラックスして、待つともなしに待ってもらえるのが一番ありがたい。
(……もしかしてあたしって、甘えすぎかしら)
考えてみれば、ベルには待ってもらってばかりいるような気がする。
「ねぇ、ベル」
「ん?」
ちらりと横目でうかがうと、彼はゆったりとした仕草で目を開けたところだった。
「待つの、退屈よね?」
聞いてから後悔した。もう遅いけれど。ベルは優しいから、こんな聞き方をしたら「そんなことない」と言うに決まっているのだ、カトラに気を遣って。これもやっぱり甘えだ。
慌てて質問を取り下げようとしたカトラの前で、寝ぼけたようなまぶたがゆっくりと上下したと思ったら、
「いや、わりと楽しい」
「えっ?」
カトラの予想はあっさりと裏切られた。
「もし俺一人だったら、こんなところでのんびりするのは無理だからな。君を待つって名目でもないと。すごく気持ちのいい、いい場所なんだけどな」
と、少しだけ悲しそうな声音。木陰で昼寝をするくらい誰も気にしないだろうに、ベルには気になるらしい。それから彼は伸ばしていた膝を抱え込み、カトラを覗き込むようにした。
「それに、待ってる時間って本当に悪くないんだぜ。ただあちこちを眺めて、いい天気だなぁとか思ってるだけで何もしてないのに、何かしたような気分になれるし」
「……素敵な考え方ね」
彼があまりにも自然に言い切ったものだから、カトラからも素直な感想が自然にこぼれ落ちていた。
ベルは照れたようにふいと視線をそらして、また木にもたれかかった。
「君が猛獣使いって言われるわけだよ」
「次あたしのことをそう言った方がいたら言っておいて。あたしのそばにいるのは猛獣じゃなくって素敵な男性よって」
「俺がそれを言うのは罰ゲームなんじゃないか」
「ふふ、でも事実だもの」
これ以上言い返したらもっと照れさせられると察したのか、ベルは持て余したような溜め息をついて、寝る姿勢に戻っていった。
fin.
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