scene 10 期待

 青色魔石の盗掘と、それによって空いた抜け穴から侵入してきた魔物たちの件が新聞に載って、ひとしきり騒ぎになって、三日が経った。カミーユの父が店にやってきたのはそんな折のことだった。ちょうど昼を過ぎた辺りで、ヴェロニカがテーブルで一息つき、めかしこんだカトラが出かけようとしていたところに、不意打ちのように現れたのである。

 いらっしゃいませ、とカトラの挨拶。父が黙って会釈を返し、帽子を取って、呆然としているカミーユを見据えた。


「やっぱりここにいたか、カミーユ」

「……父さん、なんで……」

「知っていたよ。知らないわけがないだろう。僕にも小さい頃はあったんだ。その頃に祖父がよく話してくれたからね。それで、カミーユ――」

「帰らないからな!」


 父の言葉を遮って、カミーユは吠えた。


「僕は絶対に帰らない! もう決めたんだ、ここでおじいちゃんみたいな菓子職人になるって! 父さんがなんて言ったって絶対に帰らないからな!」

「君の意見を聞きに来たんじゃない。僕の意見を言いに来たんだ。いいか、カミーユ」

「聞きたくない! 父さんの意見なんてどうだっていいよ!」

「聞きなさい! 君はいつもそうやって話から逃げる!」

「そっちが僕の話を聞かないからだろ!」

「はぁあぁ、まったくうるさいねぇ」


 ヴェロニカの大きな溜め息が二人の口を閉じさせた。


「小僧どもがぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあと、騒がしいったら。カトラ、悪いが、コーヒーを淹れてやってくれるかね。小僧どもの口にハーブティーは合わないだろうから」


 店の隅で氷の像のように固まっていたカトラが、はっと我に返って、厨房に駆け込んでいった。


「ほら、二人ともこっちに来て座りなさい」


 有無を言わせぬ口調で命じられて、カミーユはのろのろとカウンター裏から出た。ヴェロニカの隣に座る。その後に父が反対側、カミーユの正面に座った。


「あなたがヴェロニカさんですか」

「そうさ」

「シリル・ヴィルヌーヴと申します。息子がご迷惑をおかけしております」

「なに、たいした迷惑じゃないよ」


 お世辞でも迷惑ではないと言わないところがヴェロニカらしいが、カミーユとしては微妙な気持ちだ。実際、少なからず迷惑をかけていることは分かっているから、文句を言えるような立場ではないのだが。

 カトラが出てきて、二人分のコーヒーとクッキーをテーブルに置いた。お茶菓子はここのところ、カミーユが作ってヴェロニカにダメ出しされた失敗作が並ぶことになっている。


「ありがとうございます」


 お礼を言ったシリルに、カトラはやや硬い表情で「いえ」と首を振った。


「悪かったね、カトラ。もういいよ。出かけるところだったろう」

「あ、そうね。それじゃあ」


 カトラはいつもより硬い仕草で一礼すると、そそくさと店を出ていった。


「ヴェロニカさんのお孫さんですか」

「いいや、ただの店子だよ」


 たなこってなんだろう、と思って首を傾げたカミーユに、ヴェロニカが「借家人って言や分かるかね」とあきれたように言った。ああ、そういう意味か。頷いたカミーユの視界の隅に、同じように頷いている父が映った。


「それで、そんな話をしに来たんじゃないだろう。とっとと本題にお入りよ」


 ヴェロニカは促すだけ促して、ぷいとよそを向いた。

 緊張に顔が硬くなる。睨むような顔つきでいるカミーユを前に、シリルはコーヒーを一口含んでから、おもむろに口を開いた。


「先に言っておこう。僕は君を連れ戻しに来たわけじゃない」


 それはカミーユにとって思いがけない一言だった。無理矢理連れ戻されたらどうしよう、ヴェロニカさんは絶対に止めてくれないだろうし、と思っていたのだ。ヴェロニカさんはそういうところ、薄情というわけではないが、割り切っている人だから。

 シリルはもう一度コーヒーを飲んだ。なんとなく落ち着かない様子の父を見ると、カミーユまでそわそわしてきてしまう。


「……正直に言うと、君が本気で菓子職人を目指しているとは思っていなかったんだ。祖父に気を遣ってそう言っているのだろうとばかり」

「え?」


 耳を疑った。まさか、祖父に余計な気を遣って、というのは、そういう意味だったっていうのか?


「そんなわけないじゃないか! 僕はずっと本気でいたよ!」

「でも君はそんなこと一言も言わなかっただろう」


 間髪入れずに返されて、カミーユは口をつぐんだ。言われてみれば、父に面と向かって将来のことを話した記憶はない。


「だから、すぐに音を上げて戻ってくると思っていた。失礼だが、この店だって残っているとは思っていなかったし、君が旅慣れているとも思っていなかったから、心配ではあったけれど、もう十七だし、危険を避けるくらいの知恵はあると信じてね」


 三日前の事件のことは絶対に言わないでおこう、とカミーユはこっそり心に決めた。


「でもなかなか戻ってこないから、何かあったんじゃないかと思って……来てみて驚いたよ。まさかこんな風に、まさしく祖父のような店が――」


 父は不意に言葉を詰まらせた。ぐ、と詰まった息の奥を広げるかのように、コーヒーを流し込む。カップはあっさり空になって、代わりに溜め息が注がれるように落ちてきた。


「――理想の店を置いてきた、と言っていたよ。理想は置いてきたから、あとは別の道を試してみる、と言って、それで父さんはあれだけ大きな店を構えて、たくさん弟子を取ったんだ。ずいぶんと忙しくして、家のことはほったらかしでね。……僕に、店を継げとは一言も言わなかった。彼は僕には何も期待していなかったんだよ。だから僕は目指さなかったんだ。父さんのようになりたかったけれど――なりたくなかったから」


 答えられないでいるカミーユの代わりに、ヴェロニカが鼻を鳴らした。


「馬鹿だね。何かになろうとするのに、誰かからの期待なんて必要ないだろうに。期待されなきゃ動けない時点で、あんたにゃ向いてなかったんだよ」


 無慈悲な言葉に、シリルは苦笑を返した。


「ええ、僕も、今ならそう思います。実際、医者になることは、誰に言われたわけでもないのに、今ではすっかりなじんでいる。だから、僕はこれでよかったんだと思います。――だから、カミーユ、君にも、これでよかったと思える道を進んでほしい」


 父は穏やかに微笑んでいた。カミーユはふと、こうやって面と向かって話すのはいつ以来だろうかと考えた。もしかしたらこれが初めてかもしれない。父の顔をしっかりと見るのはいつ以来だろう。記憶していたほど若々しくもなければ、厳しげでもなくて、その表情は祖父のものとぴったり重なるのだった。


「僕は期待されなかったのが嫌だったから、君に期待をかけたけれど、君が別の道を行きたいというなら止めようとは思わないよ。それだけ、話したいと思って……」


 と、カップを持ち上げてから中身が空だったことに気がつき、シリルはちょっと恥ずかしげに置き直した。


「何よりも、君が元気そうでよかった。時々は連絡をよこしてくれよ。母さんも心配していたからね。……それじゃあ、僕はそろそろ戻るよ」

「っ、父さん」


 立ち上がりかけた父を、カミーユは咄嗟に引き留めた。


「なんだい」

「……これ、食べていって。まだ下手だけど、僕が作ったやつだから……いつか、もっとちゃんとしたの、食べてもらうけど」

「そうか。じゃあ、味を覚えておこう。ちゃんとしたのと比較するためにね」


 父は不格好なクッキーを口に放り込んで、「ああ、確かに、まだまだだね」と笑った。


「将来に期待できる」

「してくれなくても大丈夫だけどね――」


 カミーユはわざと冷たく言って、すっかり冷め切ったコーヒーを傾けた。蜂蜜の優しい甘みが口中に広がって、その優しい味が呼び水になった。期待はなくても大丈夫。でも、あって邪魔になるような、余計なものでもない。素直に嬉しいと思う。だから、


「――でも、来てくれてありがとう、父さん。僕、頑張って、父さんとか、おじいちゃんみたいになるよ。いつかね」


   To be continued.

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