scene 9 バラの刺繍
日の光は黄金に輝き、普段より数倍まぶしく思えた。暗い地下道にいたからだろうし、凍り付くような恐怖に直面したからだろう。芯まで冷え切っていた体がようやく温度を取り戻して、喉の奥に詰まっていた息が溶けた。ほうと溜め息をついて、太陽を見上げる。うっかりすると涙がにじみそうになるほどまぶしかったが、カミーユは無理矢理瞬きを繰り返して目を慣らした。
一歩先を歩いていたベルが、気遣わしげに半身振り返って、歩調をわずかに緩めた。間の距離が一歩から半歩に変わる。
「怪我とか、していないか?」
「……はい、特には」
「そうか。それならよかった」
二十センチ近く上に顔があるせいで、その表情はほとんどうかがえない。前を向かれてしまうと余計に、いかにも頑健そうな顎の筋が見えるだけだ。
助けられた。それは素直にありがたいと思う。でも、どうしても気になってしまう。カミーユはそっと口を開いた。
「どうして来てくれたんですか」
「カトラからあのメモの話を聞いて、念のため見にいってほしいと頼まれたんだ。君がいるかどうかは分からなかったけれど、どちらにしたって調べる必要はあると思ったから、それなら早めに行こうと思って」
「無駄足になるかもしれないって思わなかったんですか」
ベルは思わずといった感じでカミーユを見下ろしたが、すぐ前に向き直りながら首をひねった。
「考えもしなかったな、そんなこと」
「え?」
「カトラの助言はだいたい正しいし……いや、違うな、別に正しいから動いたわけでもなくて……」
言葉がぷつりと切れて、奇妙な沈黙が横たわった。ベルは顎の先に拳を当てるようにして、何かを考えているらしい。どうしたのだろう、と不審に思ったカミーユが口を開きかけたときに、彼がふとこちらを向いた。
氷のような薄青の瞳を、初めてまともに見る。
「無駄になるとかそういうのはどうでもいいかな。俺が動きたいから動いただけだ。何が起きても、起きなくても、やりたいことをやったんだからそれで充分だろ」
考えたわりに飾りのない言葉だった。カミーユの心がざわつく。ああ、まただ。また余計な飾りがない――どうして自分は余計なことをして失敗して、なのにどうしてこの人たちは? これじゃあんまりにも僕が幼いみたいで……落ち込んでしまう。もはや苛立ちすらしなかった。
それきりカミーユはうつむいたままで、絶対に顔を上げようとしなかった。
「あっ、おかえりなさい!」
飛び跳ねるような声がして、ようやくカミーユは顔を上げた。外で待ち構えていたらしいカトラが、ヴィルヌーヴの玄関先から駆け寄ってくるところだった。
「言われた通り軍警さんに話しておいたけれど、どうだった? 大丈夫だったかしら」
「うん。おかげでいろいろと解決しそうだ。君の予想通りだったよ」
「本当に? それじゃあ――それじゃ、危ないところだったのね!」
急に目を覚ましたように声を張り上げたカトラが、カミーユの腕の辺りを掴んだ。カミーユはびくりと肩を縮めた。
「大丈夫、カミーユ? 怪我してない? ごめんなさい、あたしがもっとちゃんと話していたらよかったわ。もっとしっかり考えていれば分かったことだったのに……」
「いえ……」
考えたって分かることじゃないだろう、と反発するように思いながら、カミーユは縮めていた肩を落とした。てっきり責められるものとばかり思っていたのだ。危険だと警告されたのに、嘘までついて、どうして行ったのだと。――こういうところにもいちいち心が引っかかる。
カトラはすぐにベルを見上げた。身長差のせいで首の角度がほぼ真上を向くぐらいになって、しかしそうなったのも一瞬のことだった。ベルが膝を折ってカトラと目線を合わせたからである。
「ベルは? 怪我してない?」
「ああ、ええと……――取り立てて言うほどのものじゃない。ちょっとかすったくらいで」
「小さい傷を馬鹿にしちゃいけないのよ! どこを怪我したの?」
ベルは黙って、少しだけ右腕を示すようにした。反対側にいたからカミーユには見えていなかったが、腕には服の切れ端と思われる布が乱雑に巻かれていて、わずかに血がにじんでいるようだった。
「大変だわ。手当てするから中に入って」
「いや、こんな状態で菓子屋に入るのはまずいだろ」
「……でも、早く処置しないと」
「平気さ、これくらい。よくあることだし」
「でも……」
「店先が気になるならカトラさんの部屋に行ったらいいじゃないですか」
どうしてこんな簡単なことを選択肢に入れていないんだろう? カミーユが何気なくそう言うと、二人はぴたりと固まった。あれ、とカミーユが思うより早く、カトラが両手を合わせた。
「そ、それもそうね! そうだわ、それがいいわ、そうして! ね!」
ベルは固まったまままごついていたが、カトラに服の裾を掴まれると、大人しく引っ張られて住居用の玄関をくぐっていった。
変な二人だ。カミーユは服の埃を払い落としてから店に入った。カトラが行ってしまった以上、着替えてくるにしても、ヴェロニカに一言言ってからでなくてはいけないだろう。
ヴェロニカは珍しく店の中のテーブルに着いていた。普段は厨房にこもっているのだが、さすがに暑かったのだろう。彼女はカミーユを見て、持ち上げかけていたティーカップを下ろした。
「ああ、戻ったかい」
「すみません、お騒がせしました」
「カトラは?」
「軍警の人の手当てをするって、上に」
「ほう、そいつぁどうも。いつになく踏み込んだもんだ」
目を丸くしたヴェロニカを見て、カミーユはようやく察した。
「あの二人って付き合ってるんじゃないんですか」
「まだだよ。妙なところでどっちも足踏みしてるのさ」
「え……それじゃあ、僕、余計なことをしたんじゃ……」
「余計なことって?」
「二人に、その、部屋で手当てしたらどうかって言ったのは僕で……」
「ああ、なるほど、道理で。いやさ、確かに余計だったかもしれないがね」
いつも通りの率直な物言いにカミーユが傷つく間もなく、
「でもいい仕事だよ。悪かないね。これで白黒つくだろうよ」
と、どこか上機嫌な様子で続けて、ヴェロニカはティーカップを傾けた。
「あの……」
「なんだね」
「おじいちゃん――祖父がよく言ってたんですが、本物の美しさに余計なものは必要ない、と。僕もそう思います。あなたの作るお菓子にも、余計なものなんて何もない。でも……」
カミーユの頭の中はすっかり混乱しきっていた。
自分は余計なことをしたから危険な目に遭った。チェルソは彼の言う美学――無精ひげに言わせれば無駄なもの――のために自分を助けようとして死にかけた。ベルは無駄足を恐れずにやってきてくれて、それで犯罪を見つけて人の命を救った。そしてカミーユは今、ついさっき自分がしたことを、ヴェロニカに“余計だがいい仕事だ”と言われた。
「余計なものって何なんですか? 何が余計で、何が無駄で、何が必要なことなのか、僕には何も分かりません」
「そりゃあそうだ。分かるわけなかろうよ、今のあんたに」
ばっさりと言われて、今度こそカミーユは傷ついた。分かるわけがない。そうか。分かるわけがないのか。それは自分が馬鹿だからか。そうだったのか――なんて考えて目の前を暗くさせた彼に対して、ヴェロニカは淡々とした調子を崩さなかった。
「余計なもんを削れ、なんていうのはね、年寄りの戯れ言だよ。もうろくしたジジイの言いそうなことだ」
ヴェロニカは鼻で笑った。そして立ち尽くしているカミーユに、灰色の鋭い視線を向ける。鋭いのに優しいその目は、母の刺繍針のように。
「何が余計か、ってことはね、長い年月を重ねて、余計なことをたくさんやって、何百回って後悔して、それでようやく分かることだ。まだ若いあんたに分かるもんかい。何もかんも、ひとつひとつの積み重ねだ。まだ生まれたばっかのひよっこが、生意気言うんじゃないよ。今はただ、やりたいことをやって、やった先で学ぶんだね」
一針一針、言葉の糸を縫い付けられるようだった。余計な線など一本も描くことなく、伸びたツタの葉には美しい葉脈が走り、その先に本物さながらのバラが花開く。そうか、そうだった。あの偉大な祖父にも、小麦粉をふるうことすらできなかった時代があったのだ。
「ほら、着替えてきなさい。埃だらけだよ」
カミーユは頷いてから、声を絞り出した。
「あの、明日から、僕にも何かお菓子を作らせてくれませんか。邪魔になると思いますが……でも、やりたいんです」
ようやくかね、と言わんばかりに、ヴェロニカが鼻を鳴らした。
「好きにしな」
「はい、ありがとうございます」
足踏みはさせられていたんじゃない。自分でしていたのだ。カミーユは鼻をすすり上げて、いち早く着替えるために店を飛び出した。
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