scene 5 分からないことが多すぎる

 残念ながら、財布に入っていたはずの全財産は綺麗に失われていたという。代わりにというか何というか、汚い紙切れが一枚だけ入っていたらしい。

 適当に折りたたまれた紙切れを開いて、カミーユは再び首を傾げた。数字と文字のように見えるものがいくつか書かれているが、わざと崩しているのかただ汚いだけなのか、ともあれぐちゃぐちゃでまったく読み取れなかった。


「知りませんね、こんなもの。僕が書いたものじゃないです」

「そうか。じゃあ、マニ・ジェンティッリが入れたものなんだな」


 男は不満げに頷いた。


「カトラに聞いてみてほしい。何か気づくことがないか、と」

「カトラさんに?」

「ああ。わざわざヴィルヌーヴへ、と言い残したんだ。何か意味があると思うんだが、俺には見当もつかないから。カトラなら分かるかもしれない。こっちは写しをとってあるから、それをそのまま渡してくれ」

「はぁ、はい」

「頼んだぞ。よろしく。それじゃあこれで失礼します」

「ああ、お待ち」


 一礼して去ろうとした彼を、ヴェロニカが引き留めた。スノーボールとティーバッグの包みを差し出す。


「持っていきな」

「いえ、ですが」

「どうせまたろくに眠れてないだろうって、カトラが心配していたよ」


 微笑んだ、らしい。誤差としか思えないぐらいわずかに口角を上げて、男は包みを受け取った。


「ありがとうございます。いただきます。明日あたり、久々にしっかりとした休みが取れそうなので、またちゃんと買いに来ます」

「そうしとくれ」


 男は改めて帽子を取って礼をして、それからようやく店を出ていった。

 ヴェロニカは何も言わずに厨房に引っ込んでいった。一人残されたカミーユは椅子にぼうっと座り、手の中の汚いメモを眺めた。ぐちゃぐちゃに書かれた文字のようなものは、お菓子の包み紙の飾り文字と似ているような気がする。こういう文字の装飾はロセッオの伝統的なもので、カミーユにはなじみがないのだ。


(……なんでみんな、カトラさんカトラさんって言うんだろう。さっきの、憲兵隊みたいな人まで)


 理解できない。あの人はそんなに特別な人なのか? 別にこれといって変わったところはないのに。強いていうなら美人なほうではあるけれど、ただそれだけだろう?

 八時を回った頃、カトラが下りてきた。いつも通り、くすんだ金髪を三つ編みにして背中に垂らし、質素なワンピースを着ている。そしてこの笑顔も、こちらが嫌になるほど輝かしいままだ。


「おはよう、カミーユ」

「おはようございます。さっき軍警の人が来て、これをあなたに渡してくれって」

「えっ」


 カトラは汚いメモを妙にうやうやしい仕草で受け取った。


「僕の財布に入ってたそうです。スリの男が殺されて、そのときにこの店へ届けてくれって言ったそうですよ」

「ああ、なるほど、そういうことね」


 真ん丸く見開かれていた目がパチパチと瞬いて、はにかんだ苦笑が一瞬見えた。それから一転、その目に真剣な色が宿る。


「うーん……ちょっと考えてみるわ。これ、あたしが持っていてもいいかしら」

「どうぞ。そもそも僕のものじゃありませんし」

「ありがとう」


 あんまり嬉しそうに、いそいそとメモをしまい込んだものだから、カミーユは思わずとげとげしい声を出していた。


「そんなものに一体何の意味があるって言うんです?」

「分からないわ、考えてみないと」

「分かったところでどうせ大したことじゃありませんよ。時間の無駄だとは思わないんですか」

「思わないわ。何もなかったなら、何もなかった、ってことが分かったってことだもの。それってとっても大切なことよ」


 カミーユは眉をひそめて首を傾げた。意味が分からない。これだから余計なものを、無駄なことを好む人間は。溜め息と嫌みしか出てこない。


「ずいぶんとお暇なんですね。無駄なことに費やす時間があるなんてうらやましいです」

「あなたには無駄に見えることが、あたしには重要なのよ。なんだってそうだわ。お菓子が嫌いな人にとっては、お菓子屋さんなんて無駄なものでしょう?」


 む、とカミーユは口をつぐむ。確かにそうかもしれない。けれど、すんなり納得するのはしゃくに障るし、菓子屋をたとえに使われたことに異様に腹が立った。


「軍警さん、スリの人の名前を言っていなかった?」

「……確か、マニ・ジェンティッリとかなんとか」

「ああ、あの有名な方ね。殺されたっていうのは、詳しく聞いてる? 犯人は?」

「中年の男だったと言っていましたけど」

「いつの話?」

「昨日の夜です」

「マニ・ジェンティッリって、被害者に優しくしてから逃げる、って有名なの。あなたが会ったとき、何かしてもらった?」

「ここまでの道を教えてもらいましたけど……」


 それがなんだって言うんです? と聞く前に、カトラは


「そう。分かったわ、ありがとう。少し出てくるわ。昼には戻ってくるから」


 変わらぬ笑顔で片手を上げて、さっさと店を出ていってしまった。

 カミーユは椅子に座り直した。かりかり、かりかり、爪の先がカウンターの上をひっかく。

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