scene 4 親切な手

「なんなんだかね、この、魔物の出現ってのは」


 今朝の作業を終えて新聞を読んでいたヴェロニカが呟くように言った。


「町中のあちこちで出てるらしいが、結界には異常がないってさ。それもどうだかねぇ」


 がさがさと新聞をたたみ直して、厨房のほうに引っ込んでいく。


「あんたも気をつけなよ。怪我人もそこそこ出てるらしいからね」

「はぁ、はい」


 カミーユは申し訳程度に頷いた。

 開店の準備はすっかり整っている。掃除もカミーユがやるようになって十日が経つのだから、もう慣れたものだ。

 夏が本格的になりつつあって、窓から差し込む日の光がぎらぎらと輝いている。もっと気温が上がってくると、早朝だろうと厨房で過ごすのが厳しくなるだろう。商品のラインナップも、軽い食感のものや甘さ控えめのもの、レモンやミントが利いたものが増えてきた。


(季節に合わせて変えていくのは、当然かもしれないけど、やっぱりすごいよな)


 一体何種類のレシピを頭に入れているのだろう。その日の気分で一品二品違うものを作ったりもするのだ。それらをすべて合わせればものすごい数になるんじゃないだろうか。

 すごいな、敵わないな……彼女のお眼鏡にかなう日はいつ来るのだろうか。カミーユは頬杖をついて、爪の先でカウンターをひっかいた。いまだ一度たりとも調理器具を触らせてもらっていない。洗い物も、お茶を淹れることすらさせてもらえないのだ――カトラにはお茶を頼むのに。

 ちぇ、と内心で舌を打ったときだった。ドアベルが鳴り、慌てて姿勢を正す。


「いらっしゃいませ――」


 ぬう、と入ってきたのは、天井に頭が届きそうなほどの大男だった。またその体格のよさといったら、カミーユが十人で飛びかかっても絶対に倒せないと確信できた。軍人らしき制服が厳めしさを助長している。威圧されて息がしづらい。

 男の硬質な瞳がこちらを睨むように見た。


「ええと、君は?」

「……カミーユ・ヴィルヌーヴです」

「ヴィルヌーヴ」

「はい、あの、ここは僕の祖父が建てた店で、それであの、いつか受け継がせてほしいってお願いしていて、今は修業のためにここにいさせてもらっていて……」


 ぼそぼそと言い訳するように答えたカミーユに、ふぅん、と男は無愛想に頷いた。唇の端がぐっと下がって、ひどく不機嫌そうだ。カミーユは冷たい汗が流れるのを感じた。なんだか怪しまれているみたいだ。家出を疑われたらどうしよう――いや、実際家出はしているんだけど、でももう成人してるし――こっちの国でも十七歳って成人だっけ? ――いや、うん、たぶん大丈夫なはず。


「カトラ……か、ヴェロニカさんはいるか?」

「あ、はい」


 追及されなかったことにほっとして、カミーユは素早く厨房の扉を開けた。のろのろと出てきたヴェロニカに、男が帽子を脱いで会釈をする。


「おはようございます」

「ああ、何だあんたか。近頃とんと見えなかったもんだから、どっかに女でもできたのかと思ってたよ」

「えっ、いえ、そんなことはっ」


 男はぎょっとしたように半歩後ずさった。「冗談さ」とヴェロニカが鼻で笑い、男が眉の辺りをこすって、帽子をかぶり直した。どうやら知り合いのようだけれど、大丈夫なんだろうか。怒らせたんじゃないか、と不安になったカミーユをよそに、ヴェロニカはまったくいつもの調子だ。


「忙しいんだろう? 魔物は、あれは一体何なんだね」

「それが、よく分かってないんです。魔法使いたちが調査して、結界にも、基盤の青色魔石にも異常がないのは確かなんですが……たぶん地下に抜け穴か何かがあるんだろうと思ってるんですが、どうにもはっきりしなくて」

「そうかね。ま、気負い過ぎないようにするんだよ」

「はい。ありがとうございます。ノ・セ側の出現率が高いので、そちら側に行くときは気をつけてください」

「はいよ。それで、何しに来たんだね」


 男はやや間を開けた。


「マニ・ジェンティッリと呼ばれていたスリのことをご存じですか」

「ああ、名前だけはね。あれだろう、財布をすっておきながら、妙に親切にしてくれるとかいう」

「ええ、その人です。……朝から店先でこんな話をして申し訳ないのですが、その人が昨夜、殺害されました」

「穏やかじゃないね」

「はい、すみません。それで、その現場に行き合った人がいたんです。そのときにはまだマニ・ジェンティッリは生きていて、これを『ヴィルヌーヴに届けてくれ』と」


 そう言って、鞄から財布を――カミーユの財布を取り出した。カミーユは息をのみそうになったのを咄嗟に押しとどめた。そのマニ・ジェンティッリとかいうスリは間違いなく、自分から財布を盗んでいった男だろう。そのスリが殺されて、死に際にわざわざ財布を届けてくれと言うなんて。

 最悪の想像が脳裏をよぎる。融通が利かなさそうなこの軍警が、もしも自分を犯人じゃないかと疑ったら……。


「何か心当たりがありませんか」

「カミーユ」


 間髪入れずにヴェロニカがこちらを見た。


「あんたの財布かね?」

「ええと……あの……」


 嘘をつくなら口ごもっては駄目だった。その態度だけでカミーユのものだと判断したらしく、ヴェロニカが男に向き直る。


「この子は十日前くらいにここへ来たんだがね、そのときにスリに遭ってるんだよ」

「そうでしたか。じゃあこれは君の財布なんだな」


 頭上から押し込まれるように言われて、カミーユは仕方なく、小さく頷いた。心臓が奇妙な音程の早鐘を打ち始めた。逃げられない、どうしよう。ヴェロニカも味方ではなかった。異国で犯罪に巻き込まれたら劣勢になるのは明らかだ。どうしたらいい?

 低い恐ろしい声が鈍器のように襲いかかってくる。


「聞きたいことが一つだけあるんだが……大丈夫か?」

「ぼ、僕は何も知りません!」


 カミーユの頭は真っ白になっていた。怖くて仕方なくって、何を言いたいのかも分からないまま、ただ口だけが勢いよく動く。


「確かに財布はすられたけれど、その人がどこにいるかとか何にも知らないし、昨日の夜はずっとここにいましたし、それに……う、疑われるのは仕方ないかもしれませんけど、僕じゃない、僕じゃないんで!」

「カミーユ。ちょいと落ち着きなさいな」


 ヴェロニカの溜め息に遮られて、カミーユははたと口を閉じた。


「一体何を勘違いしてんだか。早とちりは寿命を縮めるよ」

「すみません、俺が怖がらせたようで」

「あんたが謝ってどうするんだい。悪くもないのに」


 男はもう一度すみませんと言ってからこちらを向いた。


「すまない、言葉が足りなかった。疑ってるわけじゃないんだ。犯人はその場でちゃんと目撃されていて、君とは似ても似つかない中年の男だったと分かっているから」

「は……」


 カミーユは絶句して、それから顔を真っ赤にした。いらない恥をかかされた。それならそうと最初に言ってくれ、と胸の中だけで吠える――直接口に出す勇気なんて、とてもじゃないが。


「聞きたいのはたいしたことじゃない。財布の中のメモについてだ」


 メモ? そんなもの入れていただろうか、とカミーユは首を傾げた。

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