scene 3 足踏み

 カミーユが住み込むようになって、一週間が経った。その間カミーユがしていたことと言えば、ヴェロニカの横で彼女が作るのを見ることと、たまにお使いを頼まれて行くことと、あとは店番だけだった。

 ヴェロニカの作業を見るのはとてつもなく楽しくあった。どうにかボウルを抱え込めるか、というぐらい小柄な老婆が、あっさりメレンゲを泡立てしまうところなど、まるで魔法を見せられているようだった。ひとりで作れる限界の種類を作りきってしまう手際の良さは、数十年繰り返して染みついた完璧なルーティーンなのだろう。すべての作業が分刻み、秒刻みでよどみなく進んでいく。まったく触れさせてくれないことを不満に思う暇もないくらいだ。触れたが最後、彼女の美しい一連の流れに水を差すことになるのは分かりきっていた。だから、それはそれでいい。たとえ一言もなくとも、見ているだけで充分学べることだらけだから。

 お使いだってだいぶ慣れてきた。最初のうちは迷ってばかりだったが、よく行く店の場所を覚えてからはもう迷子になっていない。ロセッオ流の方角の表現――1がノーセ、2がエスタ、3がフェルゼ、西4がニスタ――も、一度覚えてしまえば簡単だ。どうしてこんな分かりにくい名前がついているのか、ちょっと理解しがたいけれど。

 問題は店番だった。


「最近来るようになった男がいるんだけどね、そいつがもう本当にムカつく奴で」

「マジひどいんだって! あたしに向かって“いくらで買える?”なんて言ってきてさぁ!」

「金だけはあるみたいなのよねぇ。それだけだけど」

「オーナーが立ち入り禁止を言い渡してくれたのよ。だからもう大丈夫」

「でも少し不思議だったわ。炭鉱かどこかの労働者みたく見えたんだけど」

「そうそう! どこからあんだけ金持ってきたんだろうね!」

「大変だったわね、本当に」


 かしましい五人組を横目に菓子を詰めながら、カミーユは溜め息を飲み込んだ。毎日毎日、閉店間際になると必ず彼女らがやってきて、飽きもせず似たような話を繰り返していくのである。売れ残った商品をすべて買っていってくれるのはありがたいが、彼女らに無料で出しているお菓子だってあるのだ。

 彼女らだけではない。


「カトラは?」


 老若男女を問わず、毎日のように誰かからそう聞かれる。そのたびにカトラはその人とテーブルについて、お菓子と飲み物を出しているのだ。昨日はヴェロニカより年上らしい老人と腰痛や神経痛について話し込んでいたし、その前は十代の女の子と恋愛相談を何時間としていたし、その前は壮年の男と、その前は老婦人の団体と――そのたびに消費されるお菓子とお茶の量と言ったら! あんな、一円にもならない無駄話のために!


(なんで好き勝手させているんだろう……)


 確かに、客は少ない。味に反して少なすぎるのは、宣伝をろくにしていないからだろう。それでも生活できるだけは稼げているのだから、充分すぎると言うべきか。そこはヴェロニカが気にしていない以上、とやかく言えることではない。

 けれど、だからといって、好き勝手に振る舞っていいものでもないはずだ。

 甲高い笑い声がけらけらけらと響く。いらいらいら。カミーユは乱雑になりそうなのをどうにか抑え込んで、お菓子を詰め切ってしまうと、包みをカウンターに置いて厨房へ引っ込んだ。

 厨房ではいつものように、ヴェロニカが本を読んでいる。


「あの」

「何だい」

「どうして好きにさせているんですか」


 ヴェロニカがじろりとカミーユを見上げた。その目線にちょっと気圧されそうになったが、もう今更だ。カミーユは唇を引き締めて、挑みかかるように見返した。


「何のことだい」

「カトラさんです。いつも商品に手をつけて……あれでいいんですか」

「何だ、そんなことか。くだらんね」


 ヴェロニカは吐き捨てるように言って、それで話は終わったとばかりに本へと視線を戻した。


「……え、それだけですか? 何か理由とかなんとかないんですか?」

「ないよ。あたしが許してるだけだ。好きにしろ、ってね」

「だから、何で許してるんですか」

「あんたをここに置いてやってるのと同じ理由さ。それが分からんでカトラにだけ文句を言うなら、あんたが出ていきゃいいだろう」


 カミーユはばっさりと両断されたように感じて、その痛みに口をつぐんだ。そんなふうに言われてしまったら、居候という立場上、これ以上言葉を重ねることはできない。けれど、駄目だ、納得がいかない。理由なんて、自分がジェラールの孫だからじゃないのか? カトラは縁もゆかりもない赤の他人だと聞いている。なのになぜ?

 黙って厨房を出る。店の中ではまだカトラたちが話している。できるだけその声を聞かないようにして、彼女らの横を足早に通り過ぎる。


「あ、カミーユ」


 店の扉に手をかけたときだった。カトラに呼びかけられて、カミーユはしぶしぶ振り返った。


「何ですか」

「外へ行くなら気をつけてね。最近、魔物がどこからともなく町中に現れるみたいなの。特に夜は危ないから――」

「余計なお世話です。上に戻るだけなんで」


 自分でもそうと分かるくらい不機嫌な声で言い放って、カミーユは店を後にした。ドアベルが立てた耳障りな音を、思い切り閉めた扉の向こうに追いやる。

 二つ目の玄関は開けるとすぐに上り階段がある。突き当たりに踊り場と二階の扉があって、その先を直角に折れ曲がってさらに上がると三階、カトラの部屋だ。そちら側へは一度も行ったことがない。行こうとも思っていない。


(どうせ無駄なものであふれているに決まっているんだ。興味もわかないね)


 カミーユはくさくさしたまま部屋に入った。ヴェロニカの部屋は質素で、小綺麗に片付いていて、余計な色や飾りは一切なかった。それがとても心地よい。無駄なものは無駄なもの。必要ないから無駄だと言われているのだ、そんなものを抱え込んで一体どうするというのだろう。

 ああ、腹が立つ!

 ソファに寝転んで丸くなる。と、ぎゅっと閉じたまぶたの裏に、祖父の顔が浮かんできた。


『シンプルなものが一番美しい。本物の美しさに、余計な飾りは必要ないのだよ』


 優しく微笑む祖父。


(おじいちゃん……)


 しかしその顔はすぐに消えてしまう。祖父はもういなくなってしまったのだ。ごうごうと音を立てて渦を巻く闇がある。その奥から聞こえてくる、父の厳しい声。


『これで祖父に無駄な気を遣う必要はなくなったな。カミーユも勉強に集中できるだろう。彼には僕の病院を継いでもらわなくてはならないからね』


 祖父が亡くなったほんの数日後、父は母にそう言っていたのだ。

 その言葉が聞こえた瞬間の衝撃を、今でもはっきりと覚えている。父が祖父を嫌っていたことは分かっていた。質実剛健で現実的な父と、ロマンチストで理想を追う祖父とは、水と油の関係だったのだ。会えば常に喧嘩腰で、まともに話しているところなど一度も見たことがない。カミーユが祖父の店に熱心に通っていたことについても、父はまったくいい顔をしなかった。

 けれど、だからといって、そんなふうに言うなんて!

 とても信じられなかった。信じたくなかった。――思い知らされた。祖父の存在など父にとっては邪魔でしかないのだ、自分の意志など父にとっては存在しないものなのだ、と。

 それで、我慢ならずに出てきてしまったけれど。


(父さん……)


 嫌いたいわけではなかった。父のことは祖父と同じくらい尊敬している。尊敬しているからこそ、二人がいがみ合っているのを見るのはつらい。


(……怒っているだろうな……)


 自分はそれだけのことをしている。でも、怒られてもいいと思って出てきたのだ。それくらいの覚悟を持って出てきた。誰が何と言おうと、絶対に祖父のような菓子職人になるのだ、祖父の憧れた人のもとで学んでその技術を身につけるのだ! と。

 だと言うのに。

 意味もなく足踏みさせられているこの現状は何なんだ!


(ああ、もう、本当に腹が立つ!)


 カミーユはクッションに頭を叩きつけて、目を強く強く瞑った。

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