scene 2 幸先は悪くても
『ヴェロニカのお菓子を食べさせたいものだ。本物の美味しさっていうのはね、こんなもんじゃあないんだよ』
カミーユが祖父のお菓子を美味しいと言う度に、彼はそう言って首を振ったものだった。
『何を作っても、何を食べても、彼女のお菓子を思い出すんだ。我ながら未練がましいことだと思うけれどね』
祖母や両親のいる前では決してしてくれないその思い出話に、どうしてだろうか、カミーユはひどく心をひかれたのである。若かりし頃の祖父が、異国で出会った女性。たぐいまれな才能を持ちながら、女性であるというだけでそれ以上のことができずにいた彼女を、祖父は半ば強引に連れ出して、店を開いたのだ。店が軌道に乗るのは簡単なことだった。――戦争を機に帰国して、それきりになってしまったことを、祖父は死の間際まで悔いていた。
「祖父は先月亡くなりました」
「そうかね。先月じゃあ……ふん、ずいぶんと長生きしたじゃないか」
ヴェロニカは素っ気なく言って、紅茶を傾けた。カミーユは店の片隅のテーブルに、彼女と向き合って座っていた。従業員らしき女性――カトラが淹れた紅茶が、ふわふわと気高い香りを立ち上らせている。
「それで? あんたは何しに来たんだい」
「さっきも言いましたが、祖父の店を引き継ぎに」
「明け渡せって言うのかい」
「え? あ、いえ、まさか!」
カミーユは慌てて首を振った。なんだか誤解されていたみたいだ。
「僕はあなたからお菓子作りを習いたいのです。祖父が唯一勝てないと言っていたあなたに。そして、いずれこの店を継がせていただきたいのです」
ヴェロニカの細い目がじろりとカミーユを見返した。グレーの眼光のあまりの鋭さに、一瞬息が詰まる。
しかしその目はすぐに彼から逸れていった。
「そうかね。ま、好きにしたらいいさ」
「え」
あっさりとした承諾にかえって動揺してしまう。駄目だと言われても居座って、無理を押し通す気でいたのだ。
口を開けたまま閉じられないでいる彼を尻目に、ヴェロニカがカトラの方を向く。
「カトラ、掃除だの何だの、面倒なのは全部こいつに投げちまいな」
「あら、面倒だなんて思ったことないわ。お掃除、好きだもの」
「そいつは困ったね。こいつの仕事がないじゃないか」
「お菓子作りを習いに来たんでしょう? ヴェロニカの助手をすればいいじゃない」
「素人が横にいたって邪魔なだけさね」
「し、素人じゃありません!」
カミーユはたまらず声を上げた。
「元々、菓子職人を目指して勉強をしてましたし、基本的なことは祖父から教わっています」
「ほお、あのぶきっちょにねえ」
「ぶ……っ」
ぶきっちょ。ぶきっちょだって? まさか、祖父のことか? 飴細工で本物さながらのバラを作り上げ、小さなクッキーの上にチョコレートで美しい葉脈を描ききってみせる、祖父のことを、言うに事欠いてぶきっちょだって?
かぁっと頬が朱に染まり、カミーユは勢い込んで言い返した。
「祖父は不器用なんかじゃありません! パスティ――僕がいた町では、いや、国で一番の菓子職人でした! たくさん弟子がいて、みんなから尊敬されていて、王宮からもお呼びがかかったくらいなんですよ!」
「ふぅん、そうかいそうかい。そりゃ、ずいぶん成長したもんだ。あたしのところにいた頃は、小麦粉をふるうのだっておぼつかなかったくせに」
思わず絶句する。嘘だろう、あの祖父にそんな時代が?
ヴェロニカは、成長したんだねぇ、と感慨深げに繰り返した。そうして、ぽかんと口を開けているカミーユに向かって無愛想に言う。
「毎朝五時から作り始めるよ。玄関は開けとくから、勝手に来なさい。寝床はあるんだろうね」
「あっ、はい……いえ、今から宿を探しに行きます」
「ふぅん。この近くに安いところがあるから、そこに行くといいさ。金は?」
「もちろん、持ってます――」
と、何気なく懐に手をやって、カミーユは固まった。
「……あれ?」
あるはずの膨らみがなかった。胸元の内ポケットに入れてあったはずの財布がない。空っぽのぺしゃんこだ。
「え、嘘だ。嘘……」
さぁっと血の気が引いていく。財布の場所はいつもここだったし、最後に使ってから一度も出していない。そう分かっているのに、別のポケットを探って、鞄の中を探って――ああ、やっぱりない。どこにもない。
確信した瞬間、思い出した。
『いやいや、こちらこそ』
確かにそう言って微笑んだ、あのキュウリ男――!
「やられた……っ!」
頭を抱えてテーブルに突っ伏したカミーユの耳に、ヴェロニカの溜め息が聞こえた。
「すられたのかね」
「……そのようです」
カミーユは声を絞り出した。とてもじゃないが顔を上げられなかった。気をつけていたのに、こうもあっさりとやられてしまうなんて。
「お財布、分けてなかったの?」
カトラの問いには無言を返す。なめていたと言ってしまえばそれまでだ。分けられるほどの資金がなかったというのもそうだけれど、それでも二つに分けておくべきだったのだ。被害に遭った今なら強く、強くそう思う。
再び、ヴェロニカの溜め息。ますます顔を上げられなくなる。何のために来たのか、と自分で自分を責め殺したくなった。どうしよう、どうやって誤魔化そう、働き口を教えてもらうとか、何か、何か――。
「仕方がないね。ソファくらいなら貸してやるよ。もちろん、その分働いてもらうがね」
「え……」
「まったく、ジェラールそっくりだ」
吐き捨てるように言って、ヴェロニカは席を立った。きっぱりと背を向けて厨房へと引っ込んでしまう。
カトラが手際よくヴェロニカのカップを回収し、
「ゆっくり飲んでていいのよ。そこのお菓子も、食べちゃっていいからね」
と、にっこり笑う。
「あの、どうして、こんな簡単に……疑ったりしないんですか」
思わず、カミーユは聞いていた。本当にジェラールの孫なのか、とか、いろいろ疑われても仕方がないと思いながら来たのに。話が早いのはありがたいが、なんだかこちらが騙されているような気分になってしまう。
立ち去りかけていたカトラがちょっと振り返る。それから、うーん、と首をひねって天井を見上げて、やがて答えた。
「あなたがバツェレトから来たっていうのは確実だわ。話し方がそうだもの。偽名は簡単に使えるけれど、話し方はそう簡単に直らないものよ。少なくとも、偽って騙そうって感じじゃないわ。そのうえ、お財布分けてなかったんでしょう? 旅慣れてないのか、もともとたくさんお金を持ってなかったか、どちらにしたってすっごく思い切ってここまで来た、ってことになるわよね。そこまでしてここに来る理由、これと言って思いつかないもの。特に悪い方面では。あなたの言った理由が一番しっくりくるわ」
さらさらさら、と流れるように説明されて、カミーユは目をぱちくりさせた。聞いたのはこちらだが、まさかこれほど滔々と述べ立てられるとは思いもしなかった。
それにね、と彼女は続けた。
「たぶんだけれど、ヴェロニカには分かるのよ。――居場所のない人のことが」
ぐさり、と胸を貫かれたような気がした。
すみれ色の瞳が柔らかな弧を描いて、カミーユを見た。
「安心してね。ヴェロニカが許す限り、あなたが追い出されることはないから。お仕事、何か頼めることがないか、あたしも探しとくわね」
彼女が厨房に消えてしまうと、カミーユは力なく椅子の背にもたれかかった。いろいろなことがいっぺんに起こりすぎて、何が何だか分からなかった。望み通りここで過ごせるのだという喜びと、財布をすられた己の情けなさが、正反対の方向に心を引っ張るものだから、今にも引きちぎれてしまいそうだった。
(……大丈夫、ここからだ)
気を紛らわせようと、勧められたお菓子をつまんで口に放り込む。甘さも堅さも完璧なバランスのロッシェ・ココ。強めに利かせたラム酒が癖になるカヌレ。繊細すぎる薄さとなめらかさを誇るラング・ド・シャ。記憶の中にある祖父の味と同じだ。祖父とともに失われたと思ったこの味――。
こんなふうに作れるようになりたい。カミーユは気合いを入れ直すように、背筋をぴんと伸ばした。
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