step 3 別の角度から
scene 1 遺産
ロセッオ王国は古くからバツェレト王国と友好な関係にある。国境をまたぐ乗り継ぎは思っていたよりも数段スムーズに済んで、カミーユは胸をなで下ろした。ここまでの遠出は初めてだ。一人きりの旅行も。
目的がはっきりしているし、資金だって限られているから、観光だのなんだのといった無駄なことは一切しない。ひたすら移動に次ぐ移動を重ねて、三日。ロセッオ南東の小さな町に降り立ち、ようやく肩から力が抜けた。無事にたどり着いたのだ。
(海路なら一日だったんだけどね……)
船酔いする体質でさえなければ、と思うが、着いてしまえば同じことだ。
(魔物のせいで鉄道が止まったときにはどうなるかと思ったけど、どうにもならなくてよかった)
その辺りの事情はどの国でも同じらしい。都市や車両そのものは結界で守護されているが、都市間はどうしようもないのだ。どんな魔法使いでも鉄道全域を覆うような結界を作るのは難しいし、作れたとしても費用対効果が悪すぎる。常駐している鉄道警備隊が駆除に回ったほうが、よっぽど効率的で効果的で安上がりなのだ。
凝り固まった肩を回し、ぐっと背伸びをする。初夏の日差しは明るく、山脈から吹き下りてくる風は爽快だ。
(さて)
土地勘はまったくない。この国がどういう区画整理をしているのかなんてかけらも知らないし、そもそも目的地の住所も知らない。ちなみに地図も用意していない。基本的なことは調べてきたけれど、酪農が主要産業だ、とか、かつて青色魔石を産出して栄えたことがある、とか、北と西にそびえる山脈に遮られて雪は一切降らない、とか、そんな話が一体何の役に立つって言うのだろう。
(知っているのは名前だけ。……それも、五十年近く前に開いた店だ。とっくに潰れてる可能性だって充分ある)
そうなったらどうしようか、ということを、カミーユはあえて考えないでいた。考えてしまったら足が止まる。今のように。
強く、息を吐く。
(行こう。とにかく探してみるしかない!)
ここまで来て引き下がってたまるか。だいたい、もう帰る場所はないのだから。そう己を奮い立たせて、カミーユは勢いよく歩き出した。
レンガで舗装された道はどこまで行っても綺麗だった。カラフルなアパートメントが建ち並ぶ通りに、自分は今異国にいるのだ、という実感がわいてくる。カミーユが元々住んでいた辺りだと、屋根は黒、壁は白にするのが普通で、赤や黄色や緑の家なんてあり得なかったのだ。
(華やかだけど……目が痛くなりそうだ。もうちょっと落ち着いた感じにできないものかな)
お国柄というやつだろうか。いや、途中で少し寄った首都は、ブラウンを基調にした落ち着きのある町並みだった。なるほど田舎って感じだな、と内心で鼻を鳴らす。
(まずは宿を確保するべきか。すぐに見つけられるとは思えないし。……しまったな、宿がどこにあるか、駅員に聞いてから出てくればよかった)
首都はもっと整然としていて、宿の看板もすぐに見つけられたのに。今からでも遅くない、道が分からなくなる前に引き返して、ちゃんと情報をもらおう。
そう判断したカミーユが踵を返した瞬間だった。背後にいた人に思い切りぶつかって、耐えきれず尻餅をつく。
「おわっ」
「おっと、失礼。大丈夫だったかい、坊や」
坊やって言われる年はさすがに過ぎたぞ、と思いながら、カミーユは彼の手を借りて立ち上がった。四十代くらいの男だ。日照不足で育ったキュウリのような顔をしている。
「よそから来たようだね。道は分かるかい?」
親切そうに微笑む彼に、カミーユは「平気です。ありがとうございます」と硬い笑顔を返した。異国で隙を見せてはならない、ということぐらい知っている。
男はカミーユのとげとげしさなど意にも介さずに、眉尻を下げたまま言った。
「どこかをお探しかな。ぶつかってしまったお詫びに、何か力になれたらいいんだが」
その申し出に、迷いが生まれる。聞くか、聞かないか。でもどうせ本腰を入れて探し始めたら、こうやって現地の人間を頼ることになるだろう。だったら、今聞くも後で聞くも同じだ。――それに、まぁ、なんだか悪い人ではなさそうだし。
カミーユは恐る恐る口を開いた。
「……ヴィルヌーヴ、って名前の菓子屋をご存じないですか」
「ヴィルヌーヴ。ああ、知っているよ」
駄目で元々のつもりでいたカミーユは、肩透かしを食らってぽかんと口を開けた。嘘だろう、まさか、こんなにあっさり分かるなんて!
「ここからそう遠くないよ。まず、ほら、あそこに時計塔が見えるだろう。そこを目指してノーセに」
言いさして、男は「言い換えたほうがいいかな」と気遣うように小首を傾げた。バツェレトとロセッオの言語に大差はないが、方角と数字の表現だけは大きく違うのだ。彼はどうやらその辺りのことに詳しいらしい。
「
一応、住所も伝えておくよ。と親切な男が教えてくれた地名と番号を控えて、カミーユは頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いやいや、こちらこそ。それじゃあ、よい旅を」
幸先のいいスタートだ。カミーユは踊るような足取りで、小走りに道を上がっていった。
男に言われた通りの道をたどると、果たして、そこには『ヴィルヌーヴ』というごくごく小さな看板が立っていたのだった。
(ここが……)
どこもかしこも色とりどりな町の中にあって、目に優しい質素な外観はかえって浮いているくらいだった。重厚な黒い木の扉も、薄いブラウンの壁も、磨りガラスがはめ込まれた小さな窓も、聞いていた通り、想像していた通り、そのまんまだ。
なんだか胸がいっぱいになった。無事に見つけられた。ようやくたどり着けた。ここからが本当の始まりだ。カミーユは全身を膨らませるようにしながら、扉を開けた。
からんころん。
ささやかなベルの音が頭上に響く。焼き菓子の甘い香りに包み込まれる。
その香りの温かさと言ったら!
カミーユは思いきり深呼吸をした。鼻孔と胸とをいっぱいに満たすのは、自分が知っているあの大好きな香りとまったく同じだ。それで再度確信する。ああ、間違いなくこの場所だ。
「いらっしゃいませ」
はっとして見ると、くすんだ金色の髪の女性がカウンターの向こうに座っていた。その可愛らしい顔立ちが輝かしい笑みを浮かべて、まっすぐにこちらを向いた。と思ったら、手元の刺繍にすっと戻っていった。カミーユは唾を飲み込んで、鞄のひもを握りしめた。
「あの、ヴェロニカさんという方はいらっしゃいますか」
「ヴェロニカにご用事? 珍しいわね」
ちょっと待ってて、と言うなり女性は立ち上がって、奥の扉の向こうに半身を突っ込んだ。
「ヴェロニカ、あなたにお客さんよ」
と、扉を全開にする。向こう側に厨房が見えた。遠目にもよく片付いていることがうかがえるうえに、頑健そうな厨房だ。そこからのそのそと出てきた小柄な老婆――彼女がヴェロニカなのか。彼女はカミーユを見て、わずかに目を丸くした。
彼女が。あの偉大な祖父に、『私が生涯をかけても敵わない』と言わしめた菓子職人なのか。
カミーユは唾を飲み込み、言った。
「はじめまして。僕はカミーユ・ヴィルヌーヴです。――祖父の店を引き継ぎに来ました」
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