extra scene 時計
こんにちは、と聞こえてきたその声は、これまではめったに聞くことのなかった、そのくせ最近じゃ定期的にやってくるようになった野太いものだった。ヴェロニカはちょっと考えたが、しばらくして本を置いて、のっそりと立ち上がった。
「何だね」
「ああ、よかった。誰もいないことはないって聞いていたんですが、あんまり静かだったんで」
このところよく見る軍警の男は、まず間違いなくカトラが目当てだろうに、そんな素振りなどまったく見せず、カウンターに菓子の包みを置いた。スノーボールが二袋とバターサブレ、それからココアのマフィンを三つ。
ヴェロニカがゆっくりと金を数え、品を詰める。やや手持ち無沙汰になると、男は辺りをじぃと見回す。見ているのが楽しいからゆっくりでどうぞ、と言うような態度。ヴェロニカはふいに、生家にあった時計を思い出した。あの大きな柱時計。ネジを巻かれなければ動けないのに、急いで巻いてくれなくてもいいと寛容に待っている、古びた時計。
「そういえば、ヴィルヌーヴってどういう意味なんですか」
「人の名前だよ。ここを建てた男の名字さ」
あたしの旦那じゃないよ、と余計な口を滑らせたのはそのせいかもしれなかった。
「昔は今よりももっと、女が店を持つなんて許されたことじゃなかったからね。あたしがどんなに上手に菓子を作れようと、誰かの嫁になって、家の中で作るほか道はなかったのさ」
一番華やかなはずの時代を、家でくさくさして過ごしたのだった。あの頃が一番きつかった、と人生すべてを総合してもそう結論が出る。結婚を急かす親と、次々に嫁いでいく友人たちとに囲まれて、自分だけがいつまでも子供のままだだをこねているように思えて、どうしようもなくいたたまれなかった。
「そんなおりに、ジェラール・ヴィルヌーヴって男に会ってね」
彼に出会ったのは、いつ、どこでのことだったか。不思議とその記憶はおぼろげだった。知らぬ間に生活に入り込んできて、ヴェロニカの人生をぐるっと一転させてしまった男。つややかに波打つ黒髪と、強気にきらめく緑色の瞳が、若々しいまま笑っている。
「そいつが、自分の店だと称してここを開いてくれたんだよ。実際は今とおんなじで、あたしがほとんど作ってたんだが。そいつはなんとも上手い奴でね、あたしが店主だってそれとなく周りに知らせて――で、そのうちに故郷に帰っていっちまったんだ」
彼の故郷が隣国と戦争を始めたせいだった。国のために戻ると言ったときの真剣な眼差しを、今でも夢に見るほど覚えている。そうして、名実ともに店はヴェロニカのものになったのだった。
「看板も変えちまったってよかったんだがね。はいよ、毎度あり」
軍警の男は、がたいからすると小さすぎる紙袋を慎重に抱えた。
「……でも、捨てられないですよね。そういう、自分のために用意されたものって」
あんまり情けない顔でそう言ったものだから、ヴェロニカは思わず鼻で笑った。
「たまには捨てなきゃならんもんもあるよ」
捨てられたくせに、捨てられなかったから、ずっとこの場にいるのだ。そこに後悔はないが。けれど、時々は、もしも――を考えてしまう。もしも素直に結婚していたら。もしも戦争がなかったら。もしも彼について行っていたら。もしも店を畳んでいたら。そんな無数の可能性を覗き込んで、ひとしきり夢想して、でもやっぱりここが一番だ、という結論に落ち着くのである。あの頃の実家とは比べものにならないほど居心地がよいし、ひとりは気楽でいいし、そのうえ今はひとりぼっちでもない。時計は充分働いた。もうネジは巻かないでいい、時を刻まなくていい。――あの人との思い出がこれ以上褪せてしまっては困る。
「昔の連れのもんなんて特にね。トラブルの種になりかねない。あんたもなんか残しちゃいないだろうね、昔の女からの贈り物とかさ」
「ええと……」
男はあからさまに口ごもった。
「悪いことは言わないよ。早めに処分しときなさい」
「はい。そうします」
ありがとうございます、それじゃあ、また。と、男は小さく頭を下げて、店を出ていった。
カトラが飛び込むように帰ってきたのは、ヴェロニカが本を開き直したときだった。
「ねぇ、今ベルが来てなかった?!」
「来ていたよ」
「ああ、やっぱり! 遠目に見えたような気がしたの! もうちょっと早く戻ってくればよかったわ……」
カトラはカゴを机に置き、小さく溜め息をはいた。カゴはシェパーズパースやらマグワートやらの葉っぱでいっぱいになっていた。ヴェロニカでも知っている草花だ。確か止血になるとかなんとか、そういう効果があると言っていたはずだ――だいぶこの子の影響を受けてきたね、などと思いながら、再び本を閉じる。
「そうそう上手くいくことばっかじゃあないよ。たまにはこういう日があるのもいいもんさ」
「そうかしら」
「そうさ。おかげで次が楽しみだろう」
カトラは軽く頬を染めて、「それは……そうね」と小さく頷いた。
「あのネジを巻くのは骨が折れそうだがね」
「ネジ?」
「いいや、なんでもないよ。それより、何かお茶でも入れてくれるかね」
「ええ、分かったわ。ちょっと待ってて」
ま、そいつはお互い様か、とヴェロニカは胸の内だけでつぶやき、本を開いた。
fin.
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