extra scene 娘のように、妻のように
「すべて、あなたの勘違いだったというわけです」
軍警から説明を受けたのは、変な女に時間を聞かれた翌日のことだった。麻薬の売買集団が逮捕されて、やはりそうだったかと膝を打った直後だ。もう彼女も解放されているという。
「時計はご自分でお持ちですよね。これ以上の捜査が必要ですか」
「……結構だ。失礼する」
軍警の本部を出て、家へ急ぐ。
エリーザは関わっていなかった。関わっていなかっただと? とてもじゃないが信じられない。――が、本当に関わっていないのなら。
私の早とちりだとか勘違いだとかはどうでもいい。これで彼女との縁は切れただろうが、そんなこともこの際どうだっていいのだ。ただ彼女が健全であるなら、それでいい。馬鹿な娘が馬鹿な男に唆されて、薬で死んで。精神を病んだ妻が後を追うように薬を飲んで、死んで。本当に馬鹿な女ばかりだ。どいつもこいつも馬鹿ばかりなのだ。エリーザもそうだと思った。あの怪しげな包みを見た瞬間、すぐに勘付いた。隙を見てにおいを確認して、そして絶望した。この女も結局同じか、と。私の周りには馬鹿な女しか集まってこないのかと。
だが、違うのなら。違うのならそれでいいのだ。もう二度と彼女には関わるまい。彼女だって関わってはくるまい。
清々した。
やはり女どもとの関わりは絶っておくべきだったのだ。今後はそうしよう。ちょうどいい機会だ。これを本当の最後に、私は二度と――
そう決意した、たった三日後だった。
「ごきげんよう、おじさまぁ」
「お前っ……」
事務所に平然と現れた彼女に、私は言葉を失う。修羅場と察した部下たちが気まずげに目線を下げる。彼女はつかつかと歩み寄ってくると、私の机に悠然と腰掛けた。
「仕事中だ。出ていけ、すぐに」
「あらぁ、あたしをあんなとこに一週間も閉じ込めておいて、ごめんなさいの一言もなし?」
「……」
「ふふ、分かってたわぁ。だからここに来たのよぉ。わざわざお仕事中を狙ったのは、ちょっとしたお返しってわけ。これでお互い様ねぇ」
「恨み言なら後で聞くから」
「後でぇ? 後っていつ? おじさま来てくださらないじゃない。いやよあたし、無駄に待たされるの」
彼女は艶然として、綺麗な足を見せつけるように組んだ。無造作に見えるブロンドの巻き毛は、徹底した手入れのもとの美しさだと知っている。その柔らかさも。彼女にしては落ち着きのあるワンピースは、ああ覚えているとも、彼女が欲しいとねだったブランドの物だ。金だけやって、好きな物を買ってこい、と――いつもそうしていた。娘と同じように。
宝石のような緑の瞳が、ちらりと私を見た。
「怖かったのよねぇ」
「は?」
「心配してくれてありがとぉ。でもねぇ、覚えておいてちょうだい。あたしも薬って大っ嫌いなの」
父親がとんでもないジャンキーで、と彼女はさらりと告げた。
「酒と薬でべろべろになってぇ、あたしとママにひどいことたくさんしたわぁ」
「……そんなこと今まで一度も」
「話すわけないじゃない。おじさまだって話さなかったでしょ、奥様と娘さんのこと。薬物中毒で亡くなったんですって?」
何故知っている、と馬鹿のように呆然と聞き返した。
「知ってるわよぉ。おじさまの懐中時計が奥様からの贈り物だってことも、それが娘さんの生まれた日に貰った物だってことも、みぃんな知ってるわぁ」
もはや言葉も出なかった。
「スーツも奥様の選んだ物でしょ? ハンカチは娘さんからのプレゼントね。買い物はずっと奥様か娘さんに任せてたのよね、だからあたしにもお金だけくれるんだわ。――って、こっちはカトラ……あたしのお友達の推測だけど、でもすっごく納得できたわぁ。おじさまって感じがするもの。ねぇ、当たってるでしょ?」
私はとてつもなく呆けた顔をさらしているのだろう。彼女は涼やかに笑って机から下りた。そして社員の一人に近付く。
「ねぇ、社長さんってぇ、一日くらいいなくても平気よねぇ?」
有無を言わさぬ調子で問いかけられて、若い男の部下は「えっ、あっ、はい! だ、大丈夫かと!」とがくがく頷いた。
「おい、何を勝手に――」
「良かったわぁ。じゃあ、行きましょうかぁ」
「おい……っ」
「はいジャケット羽織ってぇ。帽子も」
問答無用、とばかりに、彼女は私の手を取った。柔らかい手に引かれて、逆らえずに立ち上がる。
「あたしの一週間、きっちり買い戻してもらうわぁ。覚悟はいい?」
「……分かったから手を離してくれ」
「嫌」
エリーザは離すどころか、腕に絡みつくようにした。甘い香水が纏わりつく。
「平気よぉ、傍目には親子にしか見えないわぁ。たまにはこういう日があってもいいでしょ」
ああ、本当に――馬鹿な女だ。表面上はそうであっても、お前を見つめる私の目は、親のものではないだろうに。娘のようにも、妻のようにも思えて、そのどちらでもないお前を、私は――。
嘆息して帽子を被り直す。
「……何が欲しいんだ」
「とりあえず服ねぇ。それから靴とバッグとぉ、あ、新しいレストランに行ってみたいわぁ。それからぁ――」
エリーザに引きずられて、丸一日、町中を歩き回った。立ち寄ったほとんどすべての店で金を使って、あっという間に両手が紙袋で一杯になる。
最後にはヴィルヌーヴ――彼女のお気に入りで、友人がいるという菓子屋に連れていかれた。普段店で出されるブランデーケーキはここのものだという。甘いものはあまり好きでないが、あの辛めのブランデーケーキだけは悪くない。
「カトラって子がねぇ、とっても頭がいいのよぉ。今回の騒動を収めてくれたのも彼女だし」
ふぅん、と思いながら、エリーザに引きずられていく。
店が見えた辺りで、エリーザが急に手を振った。
「はぁいカトラ。お出かけ帰り?」
「ええ、ちょっとね。エリーザは――」
あ、と、その女は店先で固まった。私も固まった。その女は先日、私にぶつかる振りをして、時計を出させた女だった。
彼女はすっかり畏縮した顔で私を窺うと、そっと頭を下げた。
「あ、あの、この間は騙すような真似をしてごめんなさい。あたしどうしてもエリーザを助けたくって……でもその、手段を選ばなかったことは本当に反省しているわ。ごめんなさい」
ということは。エリーザに薬を渡した“友人”というのは彼女ではなく。したがって、あのとき私が放った言葉のほとんどは――いや、すべては――的外れで。
エリーザが私を見上げる。
「おじさまぁ?」
「ああ、いや」
私ははたと我に返って、帽子を脱いだ。
「君が気にすることはない。勘違いしていたのは私のほうだ。どうかあのときのことは忘れてくれ」
「カトラ、おじさまがごめんなさい、って」
エリーザがあっさりと通訳して、軽やかに笑った。
「おじさまの謝罪はとっても分かりにくいのよぉ。何したか詳しく知らないけど、どーせカトラのこと罵ったんでしょ? 素直に謝れない人でごめんねぇ、カトラ。こう見えてちゃんと申し訳ないって思ってるのよぉ」
ここまで看破されてしまうと、ただ黙り込むしかない。申し訳程度に頭を下げたが、なんだかそれもふてくされた子供のようだ。
エリーザは無邪気にこちらを見上げて微笑んだ。こちらの心をすべて見透かしておきながら、何にも気付いていない馬鹿者のように、屈託なく。
ああ――分かってはいたが――馬鹿なのは私のほうだ。
「カトラ、ブランデーケーキ残ってるぅ? あれ、おじさまの大好物なのぉ」
「うーん、どうかしら。あるといいんだけど。どうぞ」
ドアベルが鳴り、甘い香りに包まれる。私がこの香りに逆らえたことなど、生まれてこのかた一度だってないのだ。
fin.
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