scene 8 南北の交差点

 その翌日には、麻薬を売買していた集団の一斉逮捕が新聞の一面で大々的に報じられた。エリーザも無事に解放され、クララは療養のために病院へ放り込まれた。

 また二日くらい雨が降って、ようやくからっと晴れた朝に、カトラはふらりと散歩に出かけた。何もすることがない日は、気ままに歩き回るのが好きなのだ。


(どの辺りに行こうかしら)


 特に目的地は決めていない。だから、軍司令本部のほうへ足が向いたのは気分的なものであって、何らかの意図があったわけではないのだ――と誰にともなく言い訳をしながら、町の中央部へ向かっていく。

 司令本部はとても広いし、どの建物も大きい。敷地内には訓練用のグラウンドもあるし、厩舎や馬場まである。ほとんどの建物は高い塀で囲われていて、中は一切覗けないようになっているけれど、馬場の辺りだけは開放的だ。簡易的な柵が設けられているだけで、簡単に中を覗き込める。

 だだっ広い馬場を、一頭の黒い馬が走っていた。もちろん、その背には人が乗っている。本来なら二十騎ほどが一斉に走っても余裕そうな場を、一騎が悠々と独占していて、とても気持ちよさそうだ。つい足を止めて見とれてしまうくらいに。

 それにしても、


(……なんだか、ずいぶんと大きくないかしら?)


 傍らの厩舎と比較して、馬も人もやけに大きい気がする。これだけ距離があるというのに。

 首を傾げたカトラは、


「失礼、お嬢さん、馬にご興味が?」

「えっ、ああ、ええと……」


 突然声をかけられて慌てて振り向いた。

 その初老の男性は満面の笑みを浮かべていた。深く刻みこまれた笑いじわが、彼の表情を自然のものだと証明している。


「興味はあるけれど、近寄ったことないの」

「そうですか、そうですか。ではぜひ一度。お時間あります? どうぞ中へ、未知のものには触れてみるべきですよ。さぁどうぞ、ご遠慮なく」


 無理矢理強引に、というわけではないのに、なんとなく誘い込まれて、カトラはのこのこと彼の後についていった。

 彼は長めの白髪を後頭部で結わえていた。ぴょこぴょこと揺れる小さなポニーテール。


「いいですね、馬に興味を持っていただくことはたいへん嬉しいことです。今走っているのは、北国の馬と掛け合わせて生まれた子でしてね。ご存知ですか、北の馬は普通より一・五倍ほど大きいんですよ。その分気性は穏やかなんですが、彼は南の馬と掛け合わされてしまったせいで、気性まで荒くって」


 人間のわがままというものは本当にどうしようもない、と彼は嘆くように言った。


「役に立つかどうかで命をはかるのは人間くらいのものですよ」


 穏やかな言葉が傷口にしみて、カトラの心がじくりと痛んだ。


「真に価値あるものはすべて、有用性と関係ないところにあるものなのですがね。それを知らない人がなんと多いことか」


 何も言えずにいると、彼はちょっとこちらを向いて「ああ、失敬。歳を取るとどうも説教くさくなってしまいまして」と照れたように笑った。

 それからまた、いとおしそうな眼差しを彼らに向ける。


「あの巨体で気性も荒いとなると、乗りこなせる人なんていないもので。今のところはリドルくんだけですね」

「今乗ってらっしゃる方ね」

「そうです、彼は素晴らしい乗馬技術を持っているんですよ」


 馬は生き生きと走り回っている。雨のせいでしばらく走れなかったのだろう。とても楽しそうだ。地響きを伴うほどの大きな足音は、ちょっとした恐怖を覚えるほどだが。

 だいぶ近付いてきた。それでようやくその姿と大きさが実感できるようになる。本当に大きな馬だわ。よくあんな巨体をコントロールできるわね、すごいわ、あの騎手の方――よくよく見て、ようやくカトラは気付いた。


「あら、ベルじゃない」

「おや、リドルくんとお知り合いでしたか」


 そういえば名字は聞いていなかった。リドルというのね、とこっそり脳に書き付ける。


「なるほどなるほど、リドルくんのお知り合いだったならなおさら、ご案内して良かった。お呼びしましょう」


 楽しそうに走っているから、と、カトラが止める間もなかった。老人がぴゅいと指笛を吹くと、その音は思いのほか力強く響き、馬の動きが止まった。そして次の瞬間、勢いよくこちらに向かって駆けてくる。

 ぐんぐん迫ってくる巨体に、一瞬はねとばされるんじゃないかと錯覚したが、そんなことはないとすぐに分かった。速度はどんどん緩んでいって、カトラの前に来るときにはほとんど止まっているような感じだった。

 本当に大きな馬だ。黒い毛並みは美しく、汗できらきらと光っている。老人がすかさず馬の鼻面をなで、「ちょっと待っていてくださいね、一度体を拭きましょう」と言うなり、カトラのこともベルのことも放置して厩舎のほうへ行ってしまった。


「あの方、馬のことが本当にお好きなのね」

「ああ、馬のことはヴァレンタイン先生が何でも知ってる」


 ベルが馬から飛び降りた。私服だったから非番なのだろう。


「どうしてここに?」

「偶然前を通りかかったの。そうしたら、見学していきますか、っておっしゃってくださって」

「なるほど、いつものか。ヴァレンタイン先生は馬の紹介をするのが好きなんだ」


 彼はカトラに微笑みかけた。


「しかし、ちょうど良かった。午後にはそっちに行こうと思ってたんだ」

「クッキーを買いに?」

「ああ、うん、でもそれだけじゃなくて……この間のお礼に」


 この間のお礼。確かに、改めて、と言っていたけれど。

 カトラは眉尻を下げて微笑んだ。


「お礼なんていいのよ。あたしなんて全然、何もしてないんだから」

「いや、君には本当に助けられた。ありがとう、カトラ」

「……別に、大したことはしてないわ」

「充分大したことだ。君がいなかったら解決できなかったと思う」

「でも……」


 褒められて嬉しいはずなのに、カトラは素直に受け取れなかった。深くうつむく。


「でも、あたしは役立たずだったわ」


 ヴァレンタイン先生の言葉が脳裏をよぎる。けれど止められなかった。有用性で命をはかる、あたしも愚かな人間の一人。


「気付くのがとっても遅くなったし、いろいろなこと、すぐに理解できなかったし……」


 姑息な真似もした、とは言えなくて、そのまま言葉を見失う。

 ああ、どうしよう。黙っていちゃ駄目なのに。これじゃあ、ただベルを困らすだけだ。カトラはいよいよみじめな気分になった。けれど、もう、どうしようもない。グリフに言われたことが胸に刺さって、古傷がぱっくりと開いたまま、まだ塞がっていないのだ。役立たずの欠陥品。馬鹿な女。あたしがもっと賢ければ、役に立てる女だったら、事件はずっとスムーズに解決できて、こんなふうに悩むことすらしないで済んだんだわ。なのに――飲み込んだはずの涙が改めて表へ出てこようとする。

 にじみかけた視界の中で、ベルの爪先がうろうろと動く。ちょっと浮いて、すぐ沈み、足裏の土をかくようにして、右足と左足の内側を擦り合わせたと思ったら今度は踵が浮く。困っているのが目に見えるようだ。早くなんでもないって言わなきゃ、ごめんなさい変なこと言って、と、そう思った直後だった。

 ベルが片膝をついて、恐る恐る、といった感じでこちらを覗き込んできた。カトラはびくりと肩を揺らして、その拍子に涙が引っ込む。

 彼は案の定、心配そうな、そしてわずかに怯えたような表情をしていた。が、カトラの顔を見上げて、ほっとしたように表情を緩める。

 それから、真摯な声がゆっくり、羊毛のような言葉を紡いだ。


「君が何て言おうと、俺が君に助けられたのは事実だ。クッキーの差し入れもすごく喜ばれていたし……それに……上手く言えなくて悪いんだが……」


 彼の瞳は何度も目蓋の裏に隠れて、あちこち泳ぎ回っていた。一生懸命言葉を探しているのが手に取るように分かる。


「君の、その、役に立ちたいっていう気持ちは分かるよ。でも、そんなに思い詰めなくていいんじゃないか。君はもっと、自分を誇りに思っていいと思う」


 薄く雲のかかった優しい青空が、ようやくぴたりと止まって、カトラの姿を収めた。


「自分の頭で考えて、やるべきだと思ったことをやれたんだ。それだけでも素晴らしいことだよ」


 おおらかに微笑んだ瞳に包み込まれる。あんまりにも柔らかい言葉と視線に抱かれて、息が止まる。

 と、鈍い痛みを声高に訴え続けていた傷口も黙り込んだ。魔法の軟膏を塗り込まれたように、痛みがすぅっと遠退いていく。そして、どうしてだろう、急に彼の目を見られなくなった。いつもと正反対の立ち位置であることも手伝って、なんだか異様に気恥ずかしい。気付かれないようにさりげなく、わずかに視線を下にずらす。

 ちょうど見ていた口元がふいに曇った。立ち上がりながら――そう、だけど、あまり危険なことには近付かないでほしい。心配になる――と、小さな声で告げたのが、カトラの耳にようやく届いた。

 そのとき突然、ぶるるる、と馬の鼻息が頬にかかって、カトラはびくりとした。ベルが慌てて手綱を引く。


「こら、バース。むやみに絡むな」

「おやおや、珍しい。気に入ったみたいですね」


 戻ってきたヴァレンタイン先生が、にこにこと馬の首筋をなでた。


「ああ、失礼、当然でしたね。リドルくんのお気に入りはバースのお気に入りでもありますからね」

「はっ」

「えっ」

「友情というものは素晴らしい。とっても良いことです」


 なるほど、そういう。紛らわしい言い方をするお人だ、とカトラはちょっとだけ頬を膨らませた。

 ヴァレンタイン先生はまったく気にしないで、馬だけを見つめている。そして、


「ふむ、バースは彼女を乗せたがっていますね。リドルくん、もしよろしければ、彼女と一緒に遠駆けしてあげてください」

「え」

「二人合わせても百五十キロは超えないでしょう? バースなら余裕です」


 ヴァレンタイン先生の言葉に相槌を打つように、バースが首を振って鼻を鳴らした。

 ベルが戸惑ったようにこちらを向いた。


「ええと……カトラが、嫌でなければ」

「あたし馬に乗ったことないんだけど、大丈夫かしら」

「それは大丈夫。どうにでもなる」


 ベルにそう言われると本当にどうにでもなる気がしてくるから不思議だ。とっても不思議だ。

 少し返答が遅れたら、彼は気まずそうに頭を掻いて、目線をよそへやった。ちょっと臆病な彼が逃げ道を作ってしまう前に、カトラは急いで言葉を返す。


「――それじゃ、ベル、一緒に乗ってくださる?」


   To be continued.

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