scene 4 寝不足の優しい鋼
無論、それからも三人は変わらずお菓子を買いに来てくれたが、女子会は自然とお休みになった。ぼんやりとした寂しさと不安が徐々に堆積していく。
ベルが訪ねてきたのは、それから四日後の午後だった。やっぱり小雨が降り続いていて、彼の肩は濡れていた。
「なんだか、お疲れみたいね?」
「少しだけな」
ベルはなんてことなさそうに笑った。少しだけ、と言ったが、明らかにもっと疲れた顔をしている。ぎゅっと強く目を瞑ったり、細かく瞬きを繰り返したりするのは寝不足の、勧めた椅子に座った瞬間深いため息が出たのは疲労の証だ。そのうえ、右腕を少し庇うような動きをしている。ドアを開けるときも椅子を引くときも、利き手ではない左手だった。
「怪我してらっしゃる?」
「何で分かった?」
彼の目ははっきりと驚きを映した。
「見れば分かるわ。利き手を一度も使ってないし、なんだか動かしにくそうにしてらっしゃるもの。怪我、ひどいの?」
「いや、大した怪我じゃない。昨日の夜、薬をきめて暴れてた連中を取り押さえに行って、そこでちょっと」
この国における麻薬の扱いについては、厳重に禁止されているのはアヘンと大麻ぐらいで、ちょっとしたハーブ類は黙認されているのが現状だ。カトラの手持ちのハーブにも、そういう作用をするものがないわけではない。使い方さえ間違えなければ、精神安定剤や鎮静剤として有効なのだ。残念ながら、間違う人のほうが多いようだけれど。
「春が近付くと増えるんだ、そういうのが。だから夜に出歩くなよ」
「ええ、気をつけるわ」
お茶を淹れてくるからちょっと待ってて、と裏手に引っ込む。ヴェロニカが本からゆっくりと目を上げて、またゆっくりと下げた。彼女は朝に一日分のお菓子を焼き上げてしまうと、あとは暇がある限り、本を読んだり編み物をしたりしている。カトラがいようといまいとお構いなしに、だ。あまり稼ごうという気はないらしく、ときには客すらほったらかしにするぐらいである。
「ヴェロニカも何か飲む?」
「ああ、もらおうかね。何だっていいよ」
「分かったわ」
ベルは痛み止めを飲んでいる可能性がある。ヴェロニカは神経痛の薬を常飲している。カフェインはできるだけ避けたほうがいいし、同時に、眠気を誘引するものも避けたほうがいい。疲れ切っているベルにそんなものを飲ませたら話なんてしていられないだろうし、ヴェロニカの読書も邪魔してしまうだろう。
(それじゃ、タイムとペパーミントをメインにしよう)
すっきりと爽やかな香りが楽しめるブレンドだ。味はやや苦いから、その分お茶菓子は甘い物を中心にしつつ、香りが鼻を抜けていくのを妨げないようなものを選ぶ。バターサブレとフィナンシェ。スノーボールは外せない。
すっかり準備を済ませて戻ると、ちょうどベルがあくびをし終えたところだった。大型の魔物のように豪快に開かれていた大きな口が、これまた大きな手の向こうできゅうと縮んでいって、目尻がわずかに潤む。本当に眠そうだ。
「無理はなさらないでね」
「平気だよ。実を言うとついさっきまで寝てたんだ。――すごくいい匂いだな」
「そうでしょう?」
「目が覚めるような……っていうか、うん、覚めたな」
ぼやけていた瞳が急に輪郭を取り戻した。良かった、とカトラはこっそり胸をなで下ろす。ハーブのにおいを嫌う人もいないわけではないのだ。最初に渡したハーブティーを気に入ってくれたようだったから、大丈夫だろうと踏んでいたけれど、それでも少しは緊張するものである。
ベルは左手でティーカップを持ち上げた。一口含んで、眉間にしわ。カトラは先回りして感想を告げた。
「味は微妙でしょ」
「ハーブティーってみんなこうなのか」
「ほとんどね。もちろん美味しいのもあるけれど、基本は香りを楽しんだり、健康のために飲んだりするものだから。中には、その味がいいって人もいるけれど」
「人の好みはそれぞれだな」
「そうね、本当に」
ちょっと前に自分が同じことを言ったような気がして、カトラはそそくさと本題に切り込んだ。
「それで、エリーザの件はどうなったの?」
「ああ、それが……」
重たげに口を開く。
「君が言ったとおり、時計は見つからなかった。彼女の家と、男――アニエッロ・グリフの家と、両方とも探したけれど、どこにもなかった。けれど、グリフは盗まれたという主張を曲げようとしないし、彼女も絶対にやってないと断言している」
完全に膠着した、とベルは憂鬱そうに言って、バターサブレを口に放り込んだ。次の瞬間、口角がわずかに持ち上がる。それを見て、よし、とカトラはほくそ笑んだ。さすがヴェロニカだわ、外れがない。
「その男性はどんなお人なの?」
「グリフは小さな貿易商の社長だ。ジャンピエトロ貿易、って聞いたことないか」
「ああ、知ってるわ。東のほうのハーブはそこでしか買えないから」
クマザサ、ゲットウ、ゲンノショウコ、どれもこの辺りでは採れないものだ。使いどころが限られているからあまり扱ってくれないが、手に入るだけありがたい。会社の主要商品は香辛料だったはずである。
「そこの社長さんだったのね」
「そう」
「ご家族はいらっしゃらないんでしょう?」
「ああ。妻と娘がいたが、二人とも亡くなっている。娘が十年前、妻が九年前だったな」
エリーザが、彼は独身だ、と言っていたが、未婚と既婚ではわずかに印象が変わる。確かに独り身ではあるけれど。
「なくなった時計は貴重な物だったの?」
「いや。金銭的な価値はそこまでないらしい。平凡な銀の懐中時計なんだが、思い入れのある品なんだと。だから絶対に見つけろ、あの女の家にあるのは間違いないんだ、って、そればかりだ」
「探しに行って、見つからなかったんでしょう?」
「ああ。だから、探し方が甘い、もう一度行け、と怒鳴られた」
「あら」
「気難しいというか、なんというか。あの手合いは自分の意見を曲げないだろうからな。毎日本部に来て、見つかったかと問い詰めてくるし。本当に大切なんだろう。……どうにかして見つけてやりたいと思うんだが」
と、ベルは溜め息をついた。
「どこかに落としてきたって可能性は?」
「念のため、彼がその日に行った場所を全部聞いて、全部当たってみたよ。無駄足だったけどな」
そのときにも散々罵られたという。だから盗まれたと言っているだろう、分からん連中だな、云々――ベルは詳細を語らなかったが、少し聞いただけで充分嫌な気分になってくる相手だ。
カトラは話を聞きながら、内心不可解でたまらなかった。こだわりが強い人だとは聞いているし、その印象は気難しさを足して揺るぎないものになったけれど。
(不思議。エリーザは彼がそんな人だって一言も言ってなかったのに)
やはり愛人には違う顔を見せるものなのだろうか。いや、しかし、そうならば余計に。
「不思議ね。どうしてそんなに確信してるのかしら、エリーザが盗んだって」
「そう思いこんでるんだろ」
「そうね、そうかもしれないけれど」
何か他に理由があるような気がしてならない。それとも、二年も付き合いのある女性に裏切られたと思いこんだら、親しかった分だけ怒りが燃え盛るのだろうか。他の可能性など考えられないくらいに、激しい憤りに。
だとしたら人の心というものは。
カトラはティーカップを両手で包み込んだ。温かさが手のひらを伝ってやってきたが、それは切なさを際立たせただけだった。
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