scene 3 恋の定義

 ジッロの後ろにはエリーザがいて、鞄を胸に抱き、不満げに、不安げに立っている。カトラはそっと彼女の手を握った。ビー玉のように丸くて透き通った、なのにとっても大人っぽくて色気のある瞳が、カトラをじっと見返す。大丈夫かしら。あたしどうなっちゃうのかしら。大丈夫よ。ちゃんと考えれば分かるんだから、絶対に平気。しっかりと頷いてみせて、カトラは彼女の手を離した。


「戻るぞ、ベル」

「おう」

「待って、エリーザは盗みなんかしてないわよ。きっと時計は見つからないと思うわ」

「え」

「今はまだ、ただの勘だけど。手伝えることがあったら言ってね、あなたが眠れなくなってしまう前に。それと、ええと、ジッロさん?」

「ん? 俺? 何?」


 きょとんと首を傾げたジッロを、カトラは彼女にできる精一杯の怖い目つきで睨んだ。


「たとえ事実でも、事前に悪いイメージを植え付けておくのはよくないわ。誰が“怖いお兄さん”ですって?」


 ジッロは言葉を理解するのに数秒必要だったらしい。ゆっくり瞬きを三回するほどの時間を掛けて、ようやく飲み込んだ彼は、思わずと言った調子で破顔した。


「あっははは、ああ、なるほどね。そいつは失礼」


 彼はまったく反省していないような様子でにまにまと笑いながら、ふとカトラに顔を近づけた。香水がさりげなく香る。遊び人と呼ぶにはやや硬派なウッディ調。煙草のにおいは自前のもののようだが、香水と上手く調和していた。

 ごく小さな声で囁いてくる。


「それじゃ、勾留中にエリーザにしっかり教えといてやるよ。ベルはいいやつだから、落とすとお得だぜって」

「えっ」


 思わず悲鳴のような声を上げてしまったカトラを見て、ジッロは「冗談だよ」とけらけら笑った。それから、不安げなエリーザとしかめっ面のベルとご機嫌なジッロ、という奇妙な取り合わせの三人組は、雨の向こうに行ってしまった。


「大丈夫かしら」

「平気っしょ。エリーザが盗みなんてするわけないもん」

「そうそう、ゆっくり待っていれば大丈夫よ。――ねぇ、カトラ?」

「うん。平気だと思うわ」

「外にいた方が気になってる方?」

「えっ、そっ、その話まだするの?!」


 突然切り込まれて、カトラは思い切り上擦った声を上げた。ジョルジャがうふふと笑い、アマンダとコルネリアがにやにやしだす。


「追及したいところだけど、さすがにそろそろ行かないとね」

「エリーザの分も働かないといけないもんねー」

「また今度、ゆっくり話をきかせてもらいましょう。エリーザと四人で」


 そう言ってくすくすと笑いながら、三人は店を後にした。

 カトラは三人を見送って、テーブルの片付けを始めた。出ていく間際、彼女らが楽しそうにしていたのは振り・・だ、と感じていた。こんなことたいしたことじゃないのだ、と思いこんで、心配でたまらない心を軽くするために。


(あたしにできることが何かあるかしら。役立たずのあたしに……)


 誰かの話を聞いて、ちょっと頭を回す。自分にはそれぐらいのことしかできない。それだって、役に立っているかどうかはよく分からないのだ。お礼を言ってもらえることもあるけれど、でも、本当はこんなこと誰にだってできるのだと思っている。だって脳みそは誰もが持っている、普遍的なものだから。


(あたし、ゆっくりとしか考えられないし。話している内に整理がつく、っていうのはそうなのよ。そうだと思うわ。だから)


 何にしたって、話しに来てくれなくては始まらないのだ。誰かが――ベルが。


(別にベルじゃなくってもいいけど!)


 カトラは一人で頬を赤くしながら、手早くティーカップをまとめていった。あれだけ言われて意識しないなんてできない。雨空に染められたような小さな薄青の瞳とか。線で描いたようにしっかりした輪郭の顎筋とか。太い筋の浮き出た大きな手とか。そう、あの手の大きさは身をもって知っている。自分の手をすっぽりと包み込んで、軽々と引き上げてくれた手。がさがさしていて、ごつごつしていて、たくさんの肉体労働が染みこんでいる手。確かに、そういうひとつひとつが今までに出会ったことのないもので、新鮮に感じていることは間違いないし、そこに惹かれているのだと言われたら否定はできない。だって、未知のものに興味を抱くのは普通のことだ。けれどこれって恋? 恋ってこういうものなの?

 うまく結論を出せない。しかし第三者からの指摘という証拠が存在する以上、無視することもできない。アマンダたちだけでなく、ジッロにまでからわれてしまったのだ。あたしってそんなに分かりやすいのかしら、とちょっとだけ不満に思って、その瞬間に思考が翻った。待って、分かりやすいって何? どう・・であることが分かりやすいっていうの?

 もやもやする。むずむずする。自分のことがこんなにも分からなくなるのは初めてだ。カトラは無性に苛立って、勢いよくトレイを持ち上げた。がちゃんとカップ同士が触れ合って、適当に置いていたティースプーンが落ちた。


「やだ、もう」


 冷静になれ。言い聞かせながらスプーンを拾う。そのときにふと、テーブルの端に置かれた小さな紙包みに目がとまった。


(あ、惚れ薬……そういえば、エリーザに断り損ねちゃったわ)


 使う相手がいない、という意味で、あたしにも必要のない物だけれど……でも一応、とカトラはその包みをポケットに入れた。でも一応、エリーザがやっぱり使うって言い出すかもしれないからね! そのために取っておくのよ! と言い訳のように思いながら。

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