scene 2 失われた時計

 彼は黒いレインコートを器用に畳みながら入ってきた。重たげなブーツがごつりと床を打つ。


「やぁ、どうも、お嬢さん方」


 軍警の制服を着た男性はにっこりと笑った。端整な細面に色っぽい垂れ目。栗色の長い髪をひとつにまとめて背中に垂らしている。文句なしの美形だが、お堅い制服でも隠しきれないほど遊び人の雰囲気を醸し出していた。

 カトラは彼に見覚えがあった。この間司令本部に行ったとき、ベルと親しげに話していた人だ。このタイミングでベルが来なくて良かった、と思いながらも、ちょっとだけ唇を尖らせてしまう。

 カトラ以上に彼と馴染みある四人が、急に姿勢を正して仕事用の派手な笑顔を浮かべた。


「ジッロじゃない」

「さぼりぃ?」

「いやいやまさか、こう見えてもちゃんとお仕事中だぜ。さぼりはキミらのほうだろ? 店まで行ったのに、まだ出勤してないって」

「お店に?」


 言ったのはコルネリアだが、眉をひそめたのは全員だ。制服でお店に行くなんて、と誰もが思ったらしい。無論、ジッロもそれを分かっていて「遊びに行ったわけじゃないぜ、残念だが」と肩をすくめてみせた。


「アニエッロ・グリフという男を知ってるだろ、エリーザ?」


 唐突に問いかけられたエリーザは、こてんと小首を傾げた。


「あたしの最高のお客さんだわぁ。昨日も一緒にいたわよぉ」


 エリーザの最高のお客。ということは、時々聞く“五十代のおじさま”のことだろう。二年前からずっとエリーザのお得意様でいてくれるらしい。羽振りが良くて穏やかで優しくて、時々父親のような小うるさいところもあるけれど、そんなところも含めて嫌いじゃない、と語っていたのを思い出す。


「彼がどうかしたのぉ?」

「昨日、そいつから時計を貰っただろう。それを返してやってほしいんだ」

「え?」


 くるんとカールした長いまつげが、二度、三度とぱたぱたする。


「あたし、時計なんて貰ってないわぁ」

「……ん? え、マジで?」

「時計どころか、あの人は今まで、なぁんにもくれたことないわよぉ。あたしが何かおねだりすると、これで好きなものを買っておいで、って、いつもお金だけくれるのぉ。まぁ、それはそれでいいんだけどさぁ」


 ちょっと味気ない、と言っていたのを、カトラも何度か聞いている。一度だけ彼が持っている安そうなハンカチをねだってみたことがあるが、いつになく真剣な顔で断られて、それ以来彼の物に手を出すのはやめた、とも。エリーザいわく、独身ゆえお金には困っていないが、強いこだわりと信念があるタイプらしい。それならそれで、必要以上に立ち入らないのが彼女らの流儀だ。

 ジッロは首の裏を掻いた。弱ったな、とその顔に書いてある。

 カトラはちょっと考えて、それから尋ねた。


「ねぇ、どうして軍警さんが、そんなことをわざわざ頼みにいらしたの?」


 彼は試すような目つきでカトラを見た。


「どうしてだと思う?」


 反対に問い返されて、カトラは天井を見上げた。考えを進める。――軍警さんが来るってことは、事件性があると思われたってことよね。その男性がただ時計をなくしただけなら、エリーザのところへ来る必要はないわ。ということは……。

 カトラは視線を戻した。


「その人、盗まれたって主張してる?」


 ひゅう、とご機嫌な口笛が正解だと告げた。

 途端にエリーザが声を荒らげた。


「はぁ? 盗みなんて……冗談じゃないわぁっ!」

「落ち着いてくれよ、エリーザ。何もその男の言葉を全部信じたわけじゃないんだ」

「そうね、ついさっきまで、軍警さんの考えは違ったわ。その人が酔っ払って、自分からプレゼントしておきながら忘れたんだろう、って考えてらしたでしょう?」

「おっと、そこまで見破られるとは想定外だったな」

「ちょっと考えれば分かることだわ」


 盗みだと確信していたなら、問答無用で連れていっていたはずなのだ。あんな呑気に“返してやってくれ”なんて言うわけがない。


「でも、エリーザが正直に言ったから、話は変わったのよね」

「そういうことになるね」


 ジッロはきゅうと目を細めて、テーブルに近寄った。


「悪いけれど、エリーザ、本部まで来てもらうよ。君の部屋も調べさせてもらうことになるだろう」

「そんな……」


 顔を青ざめさせて立ち上がろうとしないエリーザに、ジッロは苦笑を向けた。


「俺が優しくエスコートしている内に、とっとと動いたほうがいい。でないと、外から怖いお兄さんを呼んできて、君を抱え上げていかなきゃいけなくなる。な、どっちがいい?」


 怖いお兄さん。その単語にぴんときたカトラは、ドアを開けて顔を出した。

 と、すぐ脇に、大きな男性が立っていた。その背の高さといったら、もう少しでひさしに頭がつきそうなくらいだ。しとしとと降り続く小雨をぼんやりと眺めていた彼は、ジッロが出てきたと思ったらしい。ほとんど水平を保って振り向いた視線がふっと落ちて、ようやくカトラの姿を認めると、組んでいた腕をぱっと解いて居住まいを正した。

 カトラは思い切り首を傾けて彼を見上げた。


「こんにちは、ベル。あなたも中に入ってくださればよかったのに」


 いや、と彼は言葉を濁らせた。表情も一瞬だけ曇り、しかしすぐさま元に戻った。彼の口角は常に下がりぎみだから、水平になっただけで充分微笑んでいるように見える。


「満員だろう。俺まで入ったら店が壊れるぞ」

「そんなことないわ、あなた一人くらい大丈夫だけれど――」


 カトラは、外のほうがいいんだわ、と察した。ここに女性たちがいると分かっていて来たのだから、無意味に怖がらせないように、と。それで話を変える。


「ね、それよりも、時計の件よ。あれは――」

「お話し中悪いね」


 ジッロがひょいと顔を突っ込んできたので、カトラは脇にどいた。

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