extra scene その声は鋼色
カトラは震え上がった。川に落ちてずぶ濡れになったせい、というだけではない。その男性の声が槍のように降り落ちてきたからである。しかも、低くて大きくて、早口で、響きもひどく冷たく聞こえた。だからカトラは、助けてもらったことは重々承知の上で、できるかぎり可愛げのない女になろうと決意したのだった。
下手なことをしたら何されてもおかしくないわ、と、そんなふうに思っていた。もちろん助けてくださったのはありがたいわ。だからとりあえずお礼は言うけれど。でもそれでも乱暴なことはされたくない。こんな深夜に出歩いてたあたしが悪いのは分かってるけど最悪下手くそな魔法でも精一杯使って全力で逃げなきゃ。ブーツの横についていた紋章は陸軍の捜査官のものだったけれどそんなもの当てにならないわ。治安維持がお仕事の方でも男性であることに変わりはないもの。
そんなことを考えていたから、その人が何も要求しないで――それどころか、コートまで貸してくれて――「帰れ」と言ったときには、心底驚いたのである。咄嗟に理解できなかったくらいに。
カトラが警戒していることに気づいていたのか、その人は無理に「送る」とは言わなかった。それどころか、カトラが浮かんでいたことについても何も言わなかった。ただ、まっすぐ帰れ、今すぐ帰れ、と、それだけ繰り返した。
ようやく言葉を飲み込んだカトラは、当然言われた通りにした。真っ直ぐ家に戻って、出てきた窓から同じように入って、濡れた服を着替える。本当はシャワーを浴びたかったけれど、こんな時間だから我慢した。あまりほどきたくない三つ編みをほどいて、タオルでしっかり水気を拭う。
借りたコートはハンガーに掛けて吊しておく。羽織ったときに分かっていたが、本当に大きなコートだった。あの方の身長は百九十センチくらいだったのね、とひとり頷く。道理で顔も声も遠かったわけだわ。
ベッドに腰掛けて、ぼやけた輪郭の満月を見上げる。カトラはこの時季の満月が一番好きだったのだが、出かけたときのふわふわの気分はどっかに吹き飛んでしまっていた。
月が満ちると魔力も満ちて、カトラのように中途半端な回路しか持っていない人間でも、思った通りに魔法を使えるようになる。――普段はほとんど使えないんだけど。あたしは生まれたときから欠陥品だから。
『この役立たず。まともなのは外見ぐらいか。……それでもこんな欠陥品では、嫁に出すのも恥だからな。宝の持ち腐れとはこのことだ』
散々言われてきた言葉を思い出して、けれど不思議と、いつもより傷つかなかった。どうしてかしら、と首をひねる。
(……きっとあの方には、よく見えていなかったのでしょうね、あたしのこと。暗かったもの)
カトラは立ち上がって、そっとコートに近寄った。魔法で小さな灯りを点けて、ゆっくりと観察してみる。
紺色の大きなコートだ。素材は北国の羊毛。身長だけじゃなくて体格もしっかりしている人のための仕立てだ。重ね着することを考慮しているとしても、肩や腕の周りがとても太くなっている。かなり長く着ているらしい。自然な感じで裾が綻んでいた。ポケットの内側に予備があるのに、袖口のボタンが取れたままになってるということは、付ける技術も付けてくれる人もなかったのだろう。煙草のにおいがごくわずかにした。あまり日常的に吸う人ではないようだ。
ふと、コートの内側の、ちょうど肩甲骨に触れる辺りに施されていた刺繍が目に入った。
カトラはほうと息を吐いた。
「素敵……」
それは王国最北端の町、ディ・ネーヴェの辺りに伝わる、伝統的な模様だった。水晶花と
カトラはそれに触れたくなって、すんでのところで抑え込んだ。できないわ、そんなこと。これは故郷を旅立つ人に贈る、祈りの結晶だもの。
本でしか見たことがなかったが、本物はこんなに美しいなんて。そのうえ、本当に丁寧な仕事だった。彼がとても愛されていたこと、祈りとともに送り出されたことがよく分かる。
(これは、絶対に返して差し上げなきゃいけないものだわ)
きっと、いいえ絶対に、大切なものだから。
返しに行くならば、つい口をついて出た「お礼を」という言葉も嘘にしなくて済む。
(ヒントは少ないけれど……たぶんどうにかなるわ。軍警の捜査官さんで、百九十センチ超えの北国出身の方。階級なしの捜査官さんだったから、訓練所を出て配属されて二年か三年……ということは、二十三か二十四才くらいね。ええと、他にヒントになりそうなことは……)
カトラは深呼吸をして、目を閉じ、ついさっきの出来事をゆっくりと思い返した。
ガシャンと音が鳴って、最初は幽霊か魔物かと思ったのだ。でもすぐに人間だと分かって、びっくりして恥ずかしくなって、集中が切れて、元々不安定だった魔法はあっさり解けてしまった。それで川に落ちたのである。
それから、自分を抱えて、ぐいと引き上げてくれた腕の力強さを思い返した。とっても太くてたくましくて、がっしりした筋肉がついていて、温かい腕だったわ。それに胸板も相当厚かった。普段からしっかり鍛えてる方よね。あたしの周りにいた人たちとは全然違ったわ。魔法使いってみんな痩せてて、ひょろひょろしてて、筋肉なんてほとんどない方ばかりだもの。さすが軍警さんだわ、あたしをあんなに軽々と抱え上げてしまうなんて。すごく力強くて……温かくて……――
不意に、カトラははっとして目を開いた。そういえば、北国の方は夜目が利く、って聞いたことがあるわ。それが本当だとしたら。
さっきまで着ていたワンピースタイプのパジャマのことを思い出す。暖かくなってきたから、と薄手のものに替えたばかりだったから、水に濡れて、きっとあられもない姿になっていたに違いない。
カトラは熱くなった耳を両手で押さえた。
(いえ、いいえ、大丈夫、見られてないわ。……たぶん、だけど。それにほら、見られてたところで、別に減るものじゃないんだし――恥ずかしいけれど――それとこれとは別の問題よ。ね!)
頭をぶんぶんと振って思考を切り替える。それはそれとして、だ。きちんとコートをお返しして、お礼を言って、それで、それから。
(……どんな方だったのかしら)
ほとんど話さずに別れてしまったことが、ほんのちょっとだけ悔やまれた。
(こんな深夜にこんな怪しい女と会っておいて、何も問い詰めずに帰してくれるような方が軍警さんで大丈夫なのかしら)
引き止められたら全力で逃げよう、などと決めていたことは、都合良く忘れることにする。
改めて考えてみれば、あの声だって。低いトーンには落ち着きがあったし、声量は体格に見合ったものだし、早口は北国特有のものだ。冷たい響きにはこちらを案じる気持ちが隠されていたように思える。
(ま、会ってみればはっきりするわよね)
上手に会えることを祈りながら、カトラはベッドに潜り込んだ。こうやって魔法を使って夜の散歩をした後はいつも、ひどくざらついた気持ちになるというのに、そんなものまったく感じないで。
(コートを繕って、ボタンを付けて……お礼は何がいいかしら。北国の方だから甘いもの……あとは……)
布団の中が少しずつ温かくなってくる。ふんわりとした気分のまま、カトラは心地よく眠りに落ちた。
fin.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます