extra scene お礼を言いたい


 それはベルが、巡回の途中でジッロを待っているときだった。


「あっ」


 小動物の断末魔のように、甲高く小さな声を上げて、ある男が立ち止まったのである。

 ベルは怪訝な顔で彼を見下ろした。平均よりずっと小さいが、成人男性ではあるだろう。もしかすると自分より年上だ。斜めがけのバッグの肩紐を両手で握りしめ、細かく震えながら、潤んだ目でこちらを見上げている。


(あれ、こいつ、どっかで見たことあるような……)


 記憶の隅に、わずかに引っかかるものがある。


「あっ、あああああ、あの……あの……あの……かっ、かかかかっ、かかっ、かっ、カトラ、さんから、聞きました……!」

「あ」


 カトラの名前が出て、はたと思い出す。確か、幽霊騒動の相談に来ていたとかで、ヴェロニカの店から出てきたところをすれ違った奴だ。


「そうか、お前、あのときの」 

「ひぃっ! ご、ごごっ、ごめんなさい!」


 こちらが声を出した瞬間、彼は即座に縮こまって謝りだした。今にも泣きそうな顔をされると、何もしていないのに悪いことをした気分になる。自分から話しかけたならまだしも、そっちから話しかけてきてこれでは、とベルは溜め息を飲み込んだ。これは俺が逆に被害者にあたるのでは、と思いながら、できる限り威圧しないよう半歩引く。


「ご、ごめんなさいっ、ちが、違うんです、あの、その……」


 男は、喉が普通の半分の広さしかないのか、ひどくか細く呼吸をした。目は揺れ動き、右に下に上に左にとせわしない。


「ゆ、幽霊の、声の、件……あ、あなたが、解決するの、て、て、手伝って、くれたと、か、かかかかっ、カトラさんから、聞いて……お、おれ、お礼を、言わないと、って……」


 ベルはちょっと目を丸くした。カトラはわざわざあのことを伝えたのか。そしてこいつは、わざわざ声をかけてくれたのか。


「あ、ありがと、ございました……あ、あの、これ……」


 男はぺこりと頭を下げて、それからバッグに手を突っ込んだ。


「た、大したものじゃないんですが……」

「おーい、ベル」

「ひゃあああっ!」


 戻ってきたジッロが声をかけた瞬間、男は跳び上がった。そして、バッグから出した何かをベルに押しつけるが早いか、脱兎のごとく走り去ってしまった。


「こらこら、善良な一般市民から金を巻き上げちゃあまずいだろ」

「やめろ馬鹿、冗談に聞こえねぇだろ」


 ベルが睨むと、ジッロはけらけら笑った。


「で、何を貰ったんだ?」

「……絵、だな」


 それはポストカードのようだった。ベルはまじまじとそれを見つめた。あまりも細密すぎる風景画だったからである。手のひらサイズの小さな長方形の中に、びっしりと、時計塔と司令本部の建物が描かれていた。その細密さたるや、“びっしりと”と言うほかない。窓の一つ一つ、窓枠の一本、果てはガラスに映り込んだカーテンの端まで、目に映る映らないにかかわらずすべてを写し取ったかのようだった。

 ベルは芸術に疎いが、これがとんでもない時間と労力をかけて描かれたものであろうことくらいは容易に想像できる。そして力ある芸術は、問答無用で人の目を奪う。


「おわ、すっげぇ。これあれじゃん、レスピーギじゃん」

「レスピーギ?」

「画家だよ。こういう細密画を描かせたら右に出るものはいないって、最近話題になり始めてんだ」

「へぇ、詳しいな」

「俺が詳しいんじゃねぇのよ、可愛い子ちゃんたちが詳しいのさ」


 ジッロは自慢げに片頬をつり上げた。ベルは、彼の遊び人ぶりについては何も口を出さない。ただ、刺されないように気をつけろよ、と思うくらいだ。


「しかし、なるほどな、道理で」

「何がだ?」

「いや、お前ならともかく、俺が逃げられんのは納得いかねぇと思ってたんだけどよ、レスピーギなら仕方ねぇや」


 ジッロは肩をすくめた。


「あいつ、男性恐怖症なんだと」

「は」

「過去にいじめられただか何だかで、以来男とはまともにしゃべれないらしい」


 それなのによくお前に話しかけたもんだな、とジッロ。

 ベルはポストカードをポケットにしまった。間違っても折れ曲がったり、汚れたりしないよう、丁重に。そして、帰ったら部屋に飾ろう、と決める。絵なんて飾ったことはないが、できれば額縁を買って。


「何したか知らねぇけど、ラッキーだったな。十年後ぐらいに高く売れるぜ」

「じゃあ、少なくとも十年は厳重に保管しとかないとな」


 そのうちに売るタイミングを逃してしまいそうだが、と思いながら、ベルはポケットを優しく押さえた。

   fin.

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