extra scene 風船
カトラがうちに来たのは、いつだったかね、もうずいぶんと前のことのようにも、昨日のことのようにも思うよ。あの子は何とも不思議な子だから、朝起きたら突然いなくなっていても、すんなり受け入れてしまうような気がするね。風船みたいなのさ。誰も持ってくれない風船。木の枝に偶然引っかかってるだけの風船。ちょっと強い風が吹けばひょいとどこぞへ行ってしまうのだろうよ。
だからね、今朝、あの子が店に下りてきたとき、あたしは心底驚いたのさ。
「おはよう、ヴェロニカ。ねぇ、北国の羊毛の糸って持ってない? あれってどこに売ってるのかしら」
「なんでそんなもんが必要なんだい」
「お借りしたコートがほころんでいたから、繕おうと思ったのよ。どうせするなら、できる限り周りと合わせたくて」
「ふぅん。殊勝な心がけだね。しかしいったい、コートなんて、誰から借りたんだい」
「えっ」
当然のことを聞いたつもりだったんだがね。カトラの目が急に泳ぎ出したから、ああなんかやましいことか、言いにくいことがあるんだなぁとすぐに分かったよ。
「カトラ?」
「えーっとねぇ、その……怒らないで聞いてほしいんだけど……」
「怒られるようなことをしてきたんだね。正直に言ってごらん」
「……その、昨日の夜ね、満月がとっても綺麗だったの。だから、つい、散歩に行きたくなっちゃって」
そうそう、こういうところだ。風船みたいだってのは。
「それで、うっかり川に落ちちゃって……」
「あんた泳げないって言ってなかったかい?」
「ええ、言ったわ。だから溺れかけたんだけど、そこを助けてくださった方がいて」
「ほう。で、その男が貸してくれたのか」
「そう。……あたし、男性だって言ったかしら?」
「言っちゃいないがね。分かるもんさ」
なんなら来た瞬間に分かったさ。ぬるくなったハーブティーのような、春の陽気とよく似たにおいがしたからね。
それはそれとして、やっちゃいけないことは言わなきゃあならん。
「カトラ、深夜に出歩くのはやめなさいと、何度言ったら分かるんだい。その様子じゃ、そいつには何もされなかったようだが……そんな幸運は続くもんじゃないよ」
「ええ、気をつけるわ」
まったく、本当に反省しているのか分からない顔だこと。溜め息が出てしまうよ。
「それで、北国の羊毛の糸だったね。ちょっと待ってなさい」
「まぁ、あるのね!」
「色は?」
「紺色があったら一番だけど、暗めの色だったら大丈夫よ」
「はいはい。探すのにちょっとかかるから、その間にクッキーを詰めておいてくれるかね」
「うん、任せて!」
調子よく頷いちゃって、まぁ。器用で、手際も要領も良くて、良い仕事をしてくれるから、遠慮なく任せられるけども。
はてさて、その男は良い風船の持ち手になってくれるのかしらねぇ。
fin.
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