scene 9 鐘が鳴る
本部の建物を出ると、正午の鐘が鳴る直前だった。すぐ脇に建つ時計塔の音は、少し離れて聞く分には美しいが、根元で聞きたいと思わない。近付けば近付くほど大きく恐ろしくなるところは、自分とよく似ている、なんて思って、ベルはいっそう憂鬱になる――自分は遠ざかったところで恐ろしいままだ。
「ああ、いい天気。事件も無事に解決できたし、最高のお休みね」
太陽の光の中で背を伸ばし、快活に笑った彼女の姿は、ことさら輝いて見えた。小麦とかバターとか、そういう美味しくて美しく、貴重で大切な黄金を思い出す。
ベルは意識的に目を逸らした。できるだけ早く別れなければ、と思う反面、どうしても名残惜しくて、足が重くなる。
「おかげ様で。これで今日からゆっくり眠れる」
「そんなに眠れなかったの?」
「今回の事件みたいに、おかしなことがたくさんあるとな」
「じゃ、眠れなくなったらまたいらして。お話しして解決できたなら、それが一番だから」
その言葉に引っ張られ、思わず目線が彼女のほうを向く。彼女の瞳と唇がたおやかに弧を描くのを直視して、ベルはぐっと喉を詰まらせた。
「もちろん、クッキーが欲しいってだけでも来てくれていいのよ。当たり前だけど」
「……いや」
ベルは立ち止まって、首を振った。彼女の言葉を額面通り受け取って、甘えるわけにはいかない。何も言わずに別れて、二度と近付かなければいい、と思っていたが。だめだ。腹をくくる。ほどけないように頑丈な鎖でくくりつけて、言う。
「俺が行ったら営業妨害になるから――」
「買い占めちゃうから?」
もう行かない、と言う前に、彼女がそう言った。彼女は少し先で振り返って、また快活に笑う。
「あなたなら一人で、お店のクッキー全部平らげちゃいそうだものね」
無垢な笑顔が目に痛くて、ベルは苦笑しながらうつむいた。晴れた日の雪景色は美しいが、見つめすぎると目を痛める。美しい自然との付き合いには距離感が大切だ。――何より、あの青ざめた顔、あんな顔をさせてはいけないと強く思う。
「できるだろうけど、そうじゃなくて」
と呟くように言う。けれど、続く言葉が出せなかった。俺は
深くうつむいたベルの視界に、突然彼女の顔が割り込んできて、ベルはびくりと身を引いた。
「背が高い人って大変ね。うつむいても逃げ切れないんだから」
愉快そうに微笑んで、カトラはベルを見上げた。
「あのね、ベル、いいことを教えてあげる」
「……いいこと?」
「うん。とっても簡単なことだけど。ちょっと屈んでくださる?」
ベルは一瞬躊躇ったが、結局背中を曲げた。彼女の顔が近付いて、けれどやっぱり瞳を見られなくて、彼女の右肩の辺りを無意味に見つめる。
「あのね――」
そのときだった。頭上で正午の鐘が打ち鳴らされた。ぐわんぐわんと響く、恐ろしいくらいに大きな音。やっぱりこいつは近くで聞くものじゃない。すぐそばを鳩の群れが飛んでいったが、その羽音すら聞こえない。
けれど彼女はお構いなしに声を張り上げた。
「あのね! 心の中まで怖い人はね、自分の見た目の怖さなんて気にしないのよ! でもあなたは気にしてたし、ずっと、あたしを怖がらせてないかって気遣ってた! だから信頼できるのよ! だからあたし、あなたのこと怖いって思わないわ!」
そう、胸を張って、大きな声で言い切った。見た目を気にするな、ではなく、気にするあなただから信頼できるのだ、と。
ベルは思わず彼女の瞳を見た。真っ直ぐにこちらを包み込む、可憐なすみれ色。
――この
初めて抱く気持ちが自然と湧き上がってきて、腹をくくっていた鎖が砕け散った。この人を愛したい。もしも愛することを許してもらえたなら、どれほど素敵なことだろう。たとえそれは許してもらえなくとも、愛したいと願うことぐらいは、こんな俺にも許されるだろうか――。
鐘が鳴り止む。余韻が空に吸いこまれて、やがて消えていく。ベルの耳は痺れて、頭は真っ白になっていた。それが鐘のせいか、彼女の言葉のせいか、初めてやってきた気持ちのせいか分からないで、ぼうっとしてしまう。
まだ耳が鳴っているようで、カトラが両耳を擦りながらわずかに大きい声で続けた。
「ねぇ、ちゃんと聞こえてた?」
「……ああ、聞こえてた」
「何?」
「聞こえてたよ」
「良かった、聞こえてないかと思った。北国の人は耳も目もいいって本当?」
たぶん、とベルは頷いた。他の人と比べたことがないからはっきりとは言えないが、少なくとも夜目は利くほうだと思う。
ようやく戻った、とカトラが耳を離す。
「職場の人たちは、あなたのことを怖がってないでしょ?」
「そりゃ、この手のやつには慣れてるからな」
「それなら、初対面から普通に接してくれたのね?」
ばっさり言われて、言葉を失った。そういえば入隊直後は、しっかり遠巻きにされていた記憶がある。女性とトラブルを起こしたジッロの避難先に選ばれて、そこからだ。誰とも問題なく話せるようになったのは。
「それと、さっきのことだけど。あのね、あなたが関わっているかどうかに関係なく、殴り合いの場面に直面したらたいがいの女の子は怖がるわ。幽霊と同じくらいに」
幽霊も殴り合いも怖がらない、それどころか積極的に関わりに行く姉貴を思い出して、ベルは首を傾げた。どうやらうちの姉貴は“たいがい”の範疇から外れているらしい。
「だから、気になるかもしれないけれど、平気なのよ。遠慮なく来てちょうだい。クッキー、お好きでしょう?」
「うん、とても」
素直に頷いた勢いで、ベルはすかさず言った。
「家まで送るよ」
「ありがとう。でもいいの? せっかくの非番なのに」
「そう、せっかくの非番なのに、美味しいクッキーを買い損ねてるんでね」
「そうだったわ。たくさん買っていってもらわないと。時間ある?」
「たっぷりある。だから――」
ベルはわずかに迷って、しかし話し好きな彼女が先へ進んでしまうより早く、言葉を紡いだ。
「――カトラ、君さえ良かったら、昼飯を一緒に、どうだろう」
To be continued.
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