scene 2 ご機嫌な天気


(お礼を、たって)


 名前も職場も何も知らない相手に、どうやってお礼をするつもりなのだろう。


(ま、口だけなら何とでも言えるよな。……それに――)


 ――明るいところで改めて会って、怯えた顔を見ることになるのは嫌だ。

 冷静になった頭でそう考えたきり、ベルはその夜のことをすっかり忘れた。確かに不思議で、不可解な一幕だったが、それにうつつを抜かしていられるほど現実うつつは暇じゃない。

 だから、ベルが彼女のことを思い出したのは、実に三十六時間後のことであった。

 それも強制的に。


「軍警さん!」

「は?」


 巡回から帰ってきたベルを、門兵と一緒にあの女が出迎えた。ベルは目を見開いた。


「なんでここに……!」

「言ったでしょう、お礼に行くって。はい、これ。先日はコートを貸してくださってありがとう。故郷からずっと着てきたものを簡単に捨てるなんて言っちゃダメだと思うわ」


 綺麗に畳まれたコートを呆然と受け取る。明るいところで改めて見ると、彼女の髪は収穫期の小麦の色で、顔立ちはやっぱり可愛らしい。すみれ色の瞳の神秘性が、スイカにかける塩のように効いていた。

 だが、うん、それはそれとして、だ。ベルは視線と口調が尖らないように、細心の注意を払いながら尋ねた。


「何で分かった?」

「何が?」

「俺はあのとき名乗らなかったし、軍警だとも言わなかったはずだ。なのに何でここにいる」


 結局、緊張のせいで尋問口調になった巨漢に対し、彼女はけろりと言った。


「ねぇ、ちょっとだけ屈んでくださる?」

「は?」

「ほら、早く早く」


 突然意味の分からないことを、しかも急かされて、押し流されるようにベルは腰を曲げた。

 自然、彼女の顔を真正面に見ることになる。ベルはうつむきたくなったのを必死にこらえた。顔が固まるのが自覚できた――やめてくれ、ただでさえ怖い顔がもっと怖くなる!

 しかし彼女は気にした様子もなく、ベルの目を真っ直ぐに見て満足げに頷いた。


「そうそう、これでいいわ。話しやすくなった」

「……満足したなら結構。それで?」

「非番だったらそのブーツじゃなかったんでしょうけど」


 確かに。ベルは大人しく口をつぐんだ。紋章付きのこのブーツをしっかりと見ていたなら、少なくとも軍部の人間であることは分かって当然である。知識さえあれば所属だって特定可能だ。

 知識ある彼女は小さな紙の包みを二つ、ベルの手の中に押し込んだ。


「はいこれ」

「……これは?」

「甘いものお好きでしょ?」

「は」

「あとこっちはハーブティーね。普段は飲まないでしょうけど、眠れないときに試してみて。きっとよく眠れるようになるから」

「何で……っ!」

「お口に合うことを祈ってるわ。それじゃ」

「おいっ!」


 彼女はひらりと手を振って、走り去ってしまった。ご機嫌に揺れる三つ編みが、車と馬車の行き交う通りの向こうに消える。

 ベルは溜め息すらつけなかった。何が起きたのかよく理解できていない。手の中にはコートと紙包みがあるから、幻でも白昼夢でもなかったのは確からしいが。振り返った先に門兵のにたにた笑いが待っていたことからしても、間違いなく現実の出来事だったのだろう。ただ、上手く飲み込めないだけで。


「稀有な可愛い子ちゃんだったな、お前を怖がらないなんて。いったいどこで捕まえてきたんだ?」

「空から降ってきたんだよ」

「へぇー、そいつはご機嫌な天気だ。羨ましいぜ」


 しつこくにやつく彼を思いきり睨みつけて、ベルは門を潜った。


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