scene 3 スノーボールの夢
軍所属の独身警察官のためのアパートメントは、司令本部のすぐ真横にある。通勤には便利だが、何かあれば即座に呼び出しを食らうことを考えると、ややデメリットが勝るだろうか。しかしそれでも、独り暮らしには充分すぎる設備が整っていて、破格の安さであるため、ほとんどの独り身はここに住んでいた。ベルもご多分に漏れず。
夜勤の連中と敬礼を交わして、入れ違いに部屋に戻る。
押しつけるように渡された品々を机の上に広げた。私物のコートと、小さな紙包み二つ。武骨な紺色の隣に並ぶ、愛らしいピンクとクリーム色。こんな淡い色調が自分のデスクの上にある、ということに強烈な違和感を覚えて、目眩がしそうだった。
コートをハンガーに掛けて、ふと気が付く。捨てるつもりで渡したそれは、渡す前より捨てづらくなっていた。取れたままだった袖口のボタンは元通りついているし、ほころんでいたはずの裾は繕われている。縫い目はほとんど見えない。
(あいつが? 器用なんだな)
女性なら当たり前、と思えないのは、ベルの姉がとんでもなく不器用な女だからである。あの姉貴に見習わせたいもんだ、とこっそり思う。
紙包みの片方には、ティーバッグが入っていた。彼女いわくハーブティー。ハーブティーなんて飲むわけが、と思ったが、結局お湯を沸かしてみることにする。
(ま、せっかく貰ったもんだし。ものは試しだよな)
もう一つの包みの中身はクッキーだった。どうして見透かされたのだろう、とベルは頭をひねる。
彼女の言うとおり、ベルは甘いものが好きだった。外見が外見であるために、可愛らしい菓子屋にはとてもじゃないが入れないから、故郷を出て以来とんとご無沙汰していたが。
それもスノーボール。真っ白い粉砂糖に覆われたこいつは、クッキーの中でもとりわけ好きなやつだ。どうして分かったのだろう?
そっとつまんで口に放り込む。粉砂糖が舌の上で溶け、甘みが鼻の裏にまで広がる。ほんのちょっと、ごくごく軽く歯を当てただけなのに、生地はぼろりと崩れて原形をなくした。
ベルの口元が緩んだ。思わず漏れ出そうになった笑い声を――俺一人とはいえさすがに気持ち悪い――ぐっと押し止める。久々に食べたからだろうか? なんだか記憶していたより数百倍美味いような気がする。
浸っていたせいで、ケトルの甲高い音に無駄に驚き、膝をデスクにぶつけた。っでぇっ、うあっ、くそっ、と毒づきながら、コンロに駆け寄り火を止める。
(そういえば、ハーブティーってどうやって淹れるんだ?)
温度とかなんとか、本当はあるのだろう。まったく何にも知らないが。
「まぁいいか」
呟いて、ベルはいつ洗ったかも定かでないマグカップにティーバッグを放り込み、沸いたばかりのお湯を直接注ぎ込んだ。
瞬間、柔らかな香りが広がった。
「おわ……」
こんなに香り高いものなのか、と謎の感動に包まれる。ベルは、夏の山奥の草むらに身を投げ出したときを思い出した。そうだ、まさにこんなふうだった。何とははっきり言えないけれど、とにかく草花の匂い。草と太陽の匂い。自分の周りの空気が生命力と温かさでいっぱいになっていて、それが口から肺へ、肺から全身へ伝わっていく心地よさ。
それがハーブティー――たかだかお茶一杯で再現されるなんて!
(完全に舐めてた……)
少しだけ反省するような気分になりながら、マグカップ片手にデスクへ戻る。スノーボールはあと六つ。マグカップから立ちのぼる香りはまだまだ気高く、部屋中を満たす勢いだ。
良い気分で、さて、とベルはデスクに向き直る。
机上に広げっぱなしだったノートには、三日前から一切進展していない事件の経過が書かれている。
深い溜め息。
「参ったな、本当に……」
見ているだけで頭痛がぶり返す。そっとマグカップを傾けると、紅茶とは違う不可思議な味が舌の上を滑っていった。繊細、と表現するべきなのだろうが、ベルにとっては“薄い”としか言えない味。三口目にしてようやく、わずかな渋みと甘みを感じ取った。
(香りは最高だけど、味は別に、って感じだな)
ハーブティーなんてそんなものか。スノーボールがなかったら飲むのは大変だっただろう――いや、それはつまり、これらの相性が最高ってことか? 薄い渋みで口の中がリセットされて、クッキーの甘みが新鮮に広がる。みんな計算の上で渡してきたんだとしたら……すごいな、あの……。ベルは感心して息を吸い――もう少し話してみたい――それから陰鬱に吐き出した。
だめだ、俺はいったい何を考えている? あの子に近づけないだろうか、なんて、そんな夢みたいなことを考えていなかったか?
この見た目で、あんな可憐な女性に?
コンプレックス、と、そう言ってしまえばそれだけで済む話だ。細くて吊り上がった白目がちの目とか。ごつごつと角張った顔とか。百九十センチオーバーの背丈とか。鋼色の髪と薄青の瞳は北国特有のものだが、それらが余計に鋭く冷たい印象を作っている。犯罪者を相手取る分には非常に好都合だが、友好な人間関係を築くには邪魔でしかない外見。地声が低くて大きいことも災いして、女性や子どもとはまともにしゃべれたためしがない。だから今回だって……そういえば、ちょっと慌てたようにそそくさと帰っていったのは……ああそうだ、間違いない、そのせいに決まっている。怖がっていない振りをして、本当は――
と、そこまで考えてふと、頭が事件からすっかり離れていることに気が付く。
(やばい、まったく集中できてない)
意識していないとぼんやりしてしまう。考えようと思っても考えがまとまらない。書き付けた文字は形をなくし、意味を手放してふわふわとどこかへ飛んでいってしまう。スノーボールが美味しいことと、ハーブティーが温かいことしか認識できない。
それらをすっかり胃に収めてしまうと、ベルは目を擦って背筋を伸ばした。自然とあくびが出て、ようやく認める。
眠い。
ここ数日、まったくやってこなかった感覚だ。
(マジで効くのか……)
ベルは大人しくベッドに横たわった。
瞼の裏側で、小麦の穂によく似た色の三つ編みを思い出す。あれがぴょこぴょこ揺れる様を。神秘的なすみれ色の瞳。あれが楽しげに細められるのを。小さくて細くて柔らかい体。あんなに小さいのに、彼女のほうから話しかけてくれたことを――。
ふわふわに溶けた思考はふわふわと考える。さっき消したはずの夢をまた見る。どうやったらまた会えるだろうか、と、夢の入り口で考えて、あとはもう夢すら見ない眠りに落ちた。
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