scene 4 取引
包み紙の隅の文字列に気が付いたのは、いつになくすっきりと目を覚ました朝の光の中だった。
「えー……ヴィルヌーヴ……?」
ベルは眉根を寄せた。人の名前か? この辺りの言葉とわずかに違っていて、舌に馴染みがない。
(……あの子の名前、ってわけじゃないよな)
他国の出身だ、と言われたら納得できるだけの雰囲気はあったが。生まれはどこなんだろう。いや、その前に、いったいどこに住んでいるのだろう――はたと我に返って、ベルはぶんと頭を振った。昨日からずっとこうだ。そんな無駄なことを考えてどうする。――そりゃ、もう一度会いたくないかと言われたら、それは――
「おい、ベル!」
「うおああっ!」
部屋の戸が遠慮なく開けられて、ベルは悲鳴を上げた。
「うおぉう、びっくりしたぁ。起きてたのかよ」
「……びっくりしたのはこっちだよ、どあほう。ノックぐらいしろ」
ベルは――包み紙をさりげなく後ろ手に隠しながら――振り返った。
「で、何の用だ、ジッロ」
「おいおい、いつも起こしてくれって頼んでくるやつが急に冷たいじゃねぇの」
同僚のジッロはにたりと笑って、扉を閉めた。
「女ができたって噂は本当か」
「なっ……どこのどいつだそんなでたらめ言ったのは! まだできてねぇし!」
「へぇ、
「っ……」
「当てがあるってことか」
ベルは自分の顔が真っ赤に染まるのを感じた。当てなんてあるわけがない、と思う一方で、どうしても小麦の穂が脳裏にちらつく。
ジッロはけらけらと笑ってから、ふとその表情を改めた。ひょいとかがみ込んで床に手を伸ばし、落ちていた紙を拾い上げる。
「ヴィルヌーヴじゃん」
「えっ」
ベルが慌てて自分の手元を見ると、紙が一枚しかない。さっき驚いた拍子に片方落としたのだ。
「菓子屋の名前だな」
「……知ってるのか」
「まぁね」
ジッロが唇の端をつり上げた。指先で挟んだ紙をひらひらとさせる。悪魔の顔だ。続く展開を察して、ベルは鼻の頭に皺を寄せた。
「ところで、ここのところちょいと金欠でねぇ。ウイスキーを五本ほどもらえるとたいへんありがたいんだが」
「……三本なら」
「いいだろう、それで手を打ってやる」
あっさり引き下がったのを見て、最初から三本が望みだったな、と察したがもう遅い。
ジッロが紙を差し出しながら、ぺらぺらと舌を回した。
「東部地区十一ブロックの三番辺りだ。小さな三階建てのアパートメントで、一階が店になってる」
「ずいぶん詳しいな」
「俺の可愛い子ちゃんがその店のファンなのさ」
あっそ、とベルは冷たい相槌を打って、紙を受け取った。ジッロのプレイボーイっぷりはよく知っている。今言った可愛い子ちゃんだって、一ヶ月後には別の女になっていることだろう。
プレイボーイになりたいわけではないが。
時折、この細くて優しげな顔立ちが自分にあったら、と思うことがないとは言えない。なんなら今まさにそう思っている。こんな厳つくて恐ろしい顔ではなく、彼のように、柔らかで端整な顔立ちだったなら。
「お前は考えすぎなんだよ、ベル」
「何だって?」
ジッロが軽く笑いながら、ベルの肩を叩いた。
「お前を屈ませる手際なんざ、まるでベテランの猛獣使いのようだったって聞いたぜ、その子。安心して使われてこいよ」
「背中を押してるつもりか?」
「そりゃあもう、全力で」
ベルは睨むのをやめた。この友人は軽薄な調子でありながら、存外真摯だと知っている。溜め息を一つ。
「でもさ、実際……まず、行く理由がない」
「はぁ? 君に会いに来た、で充分じゃん」
「そんなこと言えるわけないだろ! お前と一緒にするな!」
「おいおいおいおい、お前は十四か? ったく、いい歳して……」
ジッロがやれやれと言わんばかりに両手を掲げる。
「なら、まずは礼を言って、それから、貰ったクッキーが美味かったんで買いに来た、でいいんじゃねぇの」
確かに。それは非常に良い口実だ。ベルは納得せざるを得なかった。納得はしたが……。
「でも……」
「見た目が、ってか?」
呆れ返った調子で言いながら、ジッロは勝手にデスクの引き出しを開けて、カードを取り出した。ヴォルパーというゲームに使う、十五×五で一揃えの束を、慣れた手付きで切って差し出す。
「ほら、引いてみろよ」
ベルは素直に一番上の一枚をめくった。自転車二台と子どもが二人、並んで走っている図柄が出る。
「十三番、“猛進”。ほれ見ろ、カードの神様だって突き進めって言ってるぜ」
「……」
「ま、そこに彼女がいるかどうかは知らねぇけど」
仕事の時間だ、行くぜ、とジッロ。ベルはカードをしまって、胸の内にもやもやするものを抱えたまま、制服に袖を通した。
☆
二日後の非番の日、ベルは紙を片手に東部地区へ向かっていた。ここまでお膳立てされた以上、行かないという選択肢は採れなかったのだ。それに――もやもやしたものがずっと胸の底にわだかまっていて、しかもそいつには何だかきらきらしたものが含まれていて、そのうえそのきらきらが事あるごとに鎖骨の下辺りをくすぐってくるから、たいへん落ち着かないのだ。どうにかしなければどうにかなってしまう。そう判断して、思いきって出てきたのである。
大通りから一本裏手に入り、住宅街の中の小さな通りを進む。
「あった。ここか」
情報通り、小さなアパートメントの一階部分がそのまま店になっていた。流行りの感じとはまったく縁がないらしく、むやみに飾り立てていないところがたいへん好印象だった。ささやかな看板だけが、ここがお菓子屋であることを示している。
(さて……)
とはいえ、入りにくいことに変わりはない。
どうしたものかと思案する。勇気を出して入ってしまおうか。まぁそこまではいい。で、どうやって彼女のことを聞き出す? ただの客だろうから、知らない可能性だって高いのに。いや、その前に、ひどく警戒されることだろう。こんな厳つい男が急に女性の居場所を聞いてきたら、仮に知っていたとしても言わないはずだ。そうなったらまずい。相手が犯罪者だったら楽なのにな、ちょっと睨むだけでたいがいはペラペラと喋り出す。だが今回は勝手が違う。間違っても脅しだと捉えられてしまわないように、慎重に事を進めなければ――いや、待て、仮にすべてが首尾良く進んだとして、無事にお礼も言ったとして、そこから彼女といったい何を話そうっていうんだ?
「ワンワンワンワンワンッ!」
「っ!」
通りかかった犬に吠えられて、ベルははたと我に返った。飼い主が慌てた様子で犬を引きずっていく。その目があからさまに怪しんでいたのを見て取って、ベルは急に腹をくくった。
(ここに立ち尽くしてるほうがよっぽどやばいやつだろ。もう行くしかない!)
最悪、スノーボールだけ買って帰ればいい。そう決めて店の扉に手をかけ――その直前に扉が内側から開いたから、ベルは飛び退いた。中から出てきた男がベルを見上げて、途端に顔を真っ青にする。
「あっ……す、すみませんすみませんっ! ごめんなさい!」
「いや、別に」
いつもこうだ。うんざりしながら道を空けると、その男は転がるような小走りで去っていった。ベルは小さな溜め息を一つ。くくったはずの腹も解けてしまった。やっぱり帰ろうかな、なんて柄にもなく臆病なことを考えて、
「あら、この間の軍警さん」
――前言撤回。来てよかった。
扉を閉めに来たらしい彼女が、ベルを見上げてにっこりとしていた。やっぱり、怯えの色は見えない。
「今日は非番なのね」
「見ての通り」
ベルは軽く足を上げて、普通の革靴を示した。それから――それから、まずい、俺は何をしに来たんだっけ? ――慌てて引っ張り出したお礼の言葉を口先に。
「あー、その……ハーブティーとクッキー、ありがとう。おかげでよく眠れた」
「そう、良かった。わざわざお礼を言いに来てくれたの?」
「いや……」
まぁ、そんなところ、ともごもご呟くベルを、彼女は面白そうに見上げた。
「良かったら中へどうぞ。クッキー、気に入ったならたくさん買っていってちょうだい」
と、大きく扉を開く。さっきからずっと鼻先をくすぐっていた甘い香りが、いっそう強くなる。
まんまと花に誘われる虫ってこんな気分なのかな、と思いながら、ベルは中へ踏み込んだ。
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