scene 5 猛獣使いの魔法
頭上でドアベルがからんころんと鳴ったのが、記憶を呼び覚ます合図のようだった。
――小麦粉とバターと卵と砂糖。黄金の品々が混ざり合い、溶け合い、焼かれてお日様の香りになる。ベルの幼い記憶が鮮やかによみがえる。雨の日の日曜日の憂鬱を、どうしても学校へ行きたくない朝の苛立ちを、数少ない友人と喧嘩した後の涙を、何度この香りが慰めただろう。
店の隅にこれまた小さなテーブルと椅子があって、彼女がそこからティーカップと皿を回収した。
「ここはヴェロニカのお店よ。あたしはこの上に住んでて、ハーブティーを作ったり、ときどきお客さんのお話を聞いたりしてるの」
ヴェロニカ、と彼女が声をかけて、奥に引っ込んだ。入れ違いに、小柄な老婆がのろのろと顔を出す。白髪を几帳面にまとめ、丸い眼鏡をちょんと乗せた姿は、小うるさい教師を彷彿とさせた。元気いっぱいな学童たちの天敵。
ヴェロニカは鋭い視線でじろりとベルを見回した。
「ずいぶん大きな客だね。うっかり腕を振り回したりしないどくれよ。店が壊れちまう」
「は……気をつけます」
なんとなく気をつけの姿勢になってしまうのは、学童だった頃に散々説教されてすり込まれた習性だろう。
ヴェロニカが引っ込んでしまうと、店内に一人残されたベルは落ち着きなく辺りを見回した。
実際、ベルがちょっと手足を振り回せば、簡単に壊せそうなほどこぢんまりとした店だった。ささやかなショーケースには、量こそ少ないものの、多種多様なクッキーが整然と並んでいる。ココアとプレーンのチェックのやつ、縁に砂糖がついているやつ、ナッツの破片が混ぜ込まれたやつ。もちろんクッキーだけではない。焼き菓子もずらりと――どれもこれも小さくて可愛らしくて、どうにも居心地が悪い。俺の部屋に置かれた二つの紙包みはきっとこんな気分だったのだろう、と思った。軽い目眩を感じる。唯一名前を知っているスノーボールを見つけたときの安心感たるや、まるで十年来の親友と再会したかのようで、思わず息を吐いた。
トレイを抱えて戻ってきた彼女が、「どうしてそんなにかしこまってるの?」と笑った。
「ほら、座って。コーヒーで良かったかしら」
「ああ、うん。ありがとう」
勧められるまま椅子に座る。体重をかけた瞬間、ぎしりと音を立てたから、壊れるんじゃないかと一瞬肝を冷やす。
沈黙することになっては気まずいから、と、ベルは慌てて口を開いた。
「ところで、どうして俺が眠れてないって?」
「あんな深夜に出歩いているのなんて、眠れない人か、そうでなければ泥棒さんでしょ」
「じゃああんたは泥棒さんのほうか」
「しまった、あたし逮捕されちゃう?」
「俺が非番で良かったな」
「ああ、助かった」
わざとらしく溜め息をついてみせてから、彼女はへらりと笑った。本当によく笑う子だ、と思いながら、ベルはマグカップを持ち上げる。コーヒーにも砂糖とミルクがたっぷり入っていた。それにぴったり寄り添うように、クッキーはやや甘さ控えめのラインナップ。
それで、ベルはなんとなくそわそわしてしまう。どれもこれも非常に好みの味なのだが、好みに合いすぎていて、なんというか、どうにも落ち着かない。声から力が抜けてしまう。それが嫌で、かといって不機嫌だと思われるのも嫌で、結果、思春期の甥っ子のような中途半端な発声になる。
「甘いものが好きってのはどうして」
「だって、あなたって北国の生まれでしょう?」
彼女はさらりと続けた。
「コートの内側にあった刺繍、あれはディ・ネーヴェの辺りの伝統的なものよね」
まさに故郷の名前を言い当てられて、ベルは目を剥いた。
「売られるものじゃないから、きっとおうちのかたが施したんだと思って」
「詳しいな」
「刺繍とか好きなの。それに、刺繍に使われてた糸も、コートの生地も、北の羊の毛だったわ。こっちじゃなかなか買えない代物だし、糸の感じが商品じゃなさそうだったから、お家は畜産をやってるのかしら、って。どう?」
「大当たり。慧眼だな」
ベルは心底感心した。コート一着でそこまで読み取られてしまうなんて。ベルの実家は確かに畜産家だし、羊毛を糸にして売るのが主な収入源だった。北国出身、と見抜かれれば、甘いものが好きだろうと予測されるのは自然なことである。北国生まれの甘いもの好きは有名だから。
「眠れないのは、考え事のせい?」
「っ!」
追い打ちをかけるようにずばりと言われて、危うくコーヒーをこぼすところだった。
「な……んで」
「悩み事があります、ってほっぺたに大きく書いてあるわ。ほら、その辺りに」
思わず頬に手をやったベルを見て、彼女はけらけらと笑った。
「冗談よ」
「いや分かってるけど……」
「悩みのある人のことはなんとなく分かるの。さっきここに来てた人もね、隣の空き家から、毎晩女性と子どもの声が聞こえてきて、怖くて眠れない、って」
「幽霊か?」
ベルは鼻で笑ったが、彼女はいたって真面目な顔で「それはどうかしら」と首を傾げた。
「その空き家は確かにいわくつきの家なんだけど、これまで幽霊騒ぎは一度も起きたことがなかったのよ。なのに、十日前って言ったかしら、それくらいから突然」
「いわくつきではあったんだな」
「そこに住んだカップルが立て続けに三組、心中したんですって」
「しっかり呪われてるじゃないか」
「でもそれなら、男女の声が聞こえるべきじゃない?」
「女のほうが執念深いものだろ」
「ええ、男のほうが根性なしだものね」
「そうかもしれないな」
「何にしたって、子どもの声までするのはおかしいのよ。どのカップルにも子どもはいなかったんだから」
「ふぅん」
ずいぶん詳しいことだ、と思った拍子に、気になっていたことを思い出す。
「そういえば、あんたって魔法使いなのか」
「あたしはカトラよ」
カトラ。彼女はカトラというのか。ようやく名前を聞けた喜びの反動で、ベルはことさら仏頂面になる。
「……カトラは魔法使いなのか」
「違うわ。確かに浮いていたけれど、魔法使いってわけじゃないの。あなたは?」
「俺が魔法使いに見えたか?」
「あたしの目はそこまで悪くないわよ」
そうじゃなくって、とカトラがわずかに頬を膨らませる。それでようやく察した。そっぽを向いて無愛想に応じる。
「俺はベルトランド。ベルでいい」
「ベル」
彼女が無邪気に復唱したのを、ベルは側頭部で聞いた。その声がベルにはやけに嬉しそうに聞こえたものだから、そっぽを向いていてよかった、とこっそり胸を撫で下ろす。
「ああ、ようやく名前を聞けた。改まって名前を聞くのってちょっと緊張しちゃわない?」
「そうか?」
そんなこと思ってもみなかった、という振りをしたのはちょっとした意地だ。気が合うな、なんてさらりと言えるほど上手ではない。誤魔化すようにマグカップを傾ける。
「ねぇ、あたしで良ければ聞くけれど」
「何を?」
「ベルの悩み事。案外、話しているうちに解決策が見つかったりするものよ」
話せる内容ならね、とカトラは微笑んだ。そのすみれ色に見つめられて、ベルの心の中の犬がごろんと腹を見せた。一瞬前まで、あんたに話したくらいで解決できたら苦労しねぇよ、と声高に吠えていたのに。
「魔法か?」
「何が?」
「いや」
ベルは首を振った。そしてゆっくりマグカップを下ろし、事件を語り出す。
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