鋼と小麦

井ノ下功

step 1 最初のお誘い

scene 1 不眠症の鋼と春の月


 ベルトランド・リドルは柵に両腕を預け、川面に大きな溜め息を落とした。

 三月頭の深夜。立ち並ぶアパートメントはすべて真っ暗だし、ガス灯の明かりはとうに落とされていて、辺りはぼんやりとした闇に沈んでいる。

 のろのろと夜空を仰げば、とぼけた輪郭の満月が浮かんでいる。雲一つないのに、春の空気のせいでくすぶっている光がどうにも気にくわなかった。こんなんじゃだめだ。こんなぼやけた輪郭じゃあ。まるで今まさに苦しんでいる宝石強盗事件のようだ。曖昧な証言。黙秘する犯人。行方知れずの宝石たち。決定打になるものがちょっとずつ欠けていて――


「くそっ」


 ベルは小さく毒づいた。結局ベッドの中にいるときとまったく変わっていないじゃないか。


(頭を冷やしたくて出てきたってのに、ったく)


 髪をガシガシと掻き回す。髪の色に頭の温度が連動すればいいのに、と思わなくもない。そうすればきっと鋼のような冷たさを手に入れられる――その分、夏のつらさが倍増しそうでもあるが。

 羽織ってきたコートはとっくに脱いでいる。やっぱ着てこなきゃ良かった、と舌打ち一つ。この辺りは北国生まれの彼にとって暑すぎるのだ。加えて軍警の独身者用官舎からここまで十五分ばかり歩いて、体はすっかり温まっている。

 故郷の月の、凜と研ぎ澄まされた光が恋しい。再び溜め息を川へ。


(……いい加減戻るか)


 これ以上ふらふらしていても仕方がないし、明日の業務に支障が出ても困る。歩いて少しは体力も使ったことだし、きっと眠れるだろう。いや、何が何でも眠らなくては。

 と、踵を返そうとした、そのときだった。

 ふ、と月が陰った。

 何の気なしに顔を上げて、


「……は?」


 思わず声が出たのは、そこに女が浮かんでいたからだった。


(女性……浮かんで……え?)


 異様に長い三つ編みが尻尾のように垂れ下がり、それが白っぽいワンピースの裾と一緒にはためいている。風もないのにそうなるのは、彼女を浮かせている力のせいだろうか。よくよく見れば、わずかに光を纏っているような気もする。今日の月光によく似た、柔らかくくすぶる銀色の光。あれは――魔法だ――確かに魔法だが、あんなに悠々と浮遊できる魔法なんて知らない。軍属の魔法使いでも、箒なしで飛んでいるところなど見たことがない。

 動揺したベルの手が柵に当たって、がしゃんと音を立てた。

 彼女がぱっと振り返る。

 そして――白い頬がかぁっと紅潮した――次の瞬間、小さな悲鳴を上げて川に落ちた。


「はぁっ?! ちょ、おい……っ!」


 水面を無意味に叩いている様子を見るに、どうやら泳げないらしい。ベルはコートを放り捨てて、川に飛び込んだ。


   ☆


 どうにか路上に引き上げて、ベルは大きく息を吐いた。がぽがぽと音を鳴らすブーツを脱いで、水を川に捨てる。軍支給のブーツは防水に優れているが、内部に水が入ると厄介なことこの上ない。

 女はぐったりとレンガ道の上にへたりこんでいる。騒ぎを聞きつけていくつかの窓が開いていたが、ベルに睨まれてそそくさと暗くなった。

 ようやく息を整えた女が、ぷるぷると頭を振って水滴を飛ばした。子犬みたいだな、とベルは思う。


「おい、大丈夫か」

「ええ、あの……ありがとう、引き上げてくださって」


 彼女はベルを見上げると、眉尻を下げて微笑んだ。お、とベルが瞬きを二、三度。暗闇でも分かるくらいに可愛らしい顔。


「本当に助かったわ。落ちたのもあなたのせいだけど」


 追記。口は可愛くない。反射的に口調が尖る。


「お前な、泳げないなら川に近付くなよ」

「落ちる予定じゃなかったんだもの。まさかこんな夜中に人がいるなんて思わなかったわ」


 そう言って、ぐしゅっ、と精一杯控えたくしゃみを一つ。

 それにしても、とベルは思う。


(暗くて良かった……)


 背丈の差もあることだし、きっと向こうにこちらの顔は見えていないことだろう。見えていたら、こんなに自然に話すことはできまい。

 寒いのか、腕をさすりながら、彼女はおっくうそうに立ち上がった。ベルが平均より大柄なせいで、平均的な彼女がやけに小さく見える。自分の胸元の辺りに彼女の頭の先が来て、子どもみてぇなサイズ感だな、と思い――ふと気が付く。

 ワンピースだと思った服は寝間着だったらしい。水を含んでぴったりと体に張り付いたそれは、外着にするにはあまりに薄く、頼りない――要するにいろいろ透けていて――そのうえ、胸元は子どもサイズでなく。


(暗くて良かった!)


 ベルは慌ててコートを拾って彼女に押しつけた。


「それ着てとっとと帰れ」

「え?」

「返さなくていい。どうせもう捨てる予定だったから。さっきみたいに飛んで帰れるか?」

「ええ、たぶん飛べるけど……」

「それなら俺が送るより安全だな。いいか、最短距離を真っ直ぐ帰るんだぞ。まずはコートを着ろ」

「いいの?」

「いいよ。いいから早く行け。こんな深夜に出歩くもんじゃない」

「人のこと言えないでしょ」


 ふふ、と小鳥のさえずりのように笑って、彼女はコートを羽織った。


「ありがとう。今度改めてお礼に行くわ。今日のところはさよなら」


 彼女はぽんと道を蹴った。すると、その小さな体はふわりと浮かび上がって、あっという間にアパートメントの屋根の向こう側に消えていった。

 ベルはしばらく、その軌跡を眺めて、ぼんやりと佇んでいた。

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